筆者の鶴亭(かくてい)(1722~85)は、長崎の黄檗宗寺院・聖福寺で嗣法した僧侶。僧としての名前は海眼浄光(または浄博)という。熊斐に絵を学び、画号を鶴亭と称した。20代でいったん還俗(げんぞく)して上方に移住し、南蘋風絵画を京坂の地に伝えた。実際に彼の作風は南蘋流の写実性ばかりでなく、本図のように、黄檗絵画特有の鮮烈な色彩と奇矯なフォルムをミックスさせた花鳥画を手がける一方で、「四君子・松・蘇鉄図屏風」のような、水墨による豪快大胆な花卉蔬果(かきそか)(たとえば竹梅蘭菊の四君子(しくんし)、蘇鉄、長芋・大根の類など)も得意とした。40代半ばにふたたび黄檗僧となって、宇治の萬福寺に入る。天明3年(1783)より各地を遊歴し、江戸の下谷池ノ端で64歳の生涯を終えた。本図の款記は「己丑春二月崎江 光寉亭漫作」、朱文方印「五字菴」白文方印「寉亭図書」を捺す。