柔らかい志野独特の釉の中に、紅の竹の子が幻想的に浮かび上がっている。向付として作られたものであるが、あまりにもその姿が端正で美しいため、茶碗に用いられた。東美濃地方で志野が盛んに焼かれるようになったのは、天正年間(一五七三-一五九二)中期頃からと推定されている。類似の陶片が荒川豊蔵氏によって大萱の窯跡から発見されている。銘の「玉川」は、小堀遠州の第三子である小堀権十郎の命名による。
ゆふされは 塩風こえて
みちのくの 野田の玉川
千鳥なくなり
伝来=名古屋 関戸家→名古屋 岡谷家→徳川美術館