ヘリオガバルス

死去: 西暦222年 年

マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥスは、ローマ帝国第23代皇帝で、セウェルス朝の第3代当主。ヘリオガバルス、またはエラガバルスという渾名・通称で呼ばれることが多く、これはオリエントにおけるヘーリオス信仰より派生した太陽神のエル・ガバルを信仰したことに由来する。
セウェルス朝の初代皇帝セプティミウス・セウェルスの外戚にあたるバッシアヌス家出身のシリア人で、元の本名はウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌスといった。セウェルスの長男であったカラカラ帝が暴政の末に暗殺されるとバッシアヌス家もまたローマより追放されたが、彼の母ユリア・ソエミアスは密かにセウェルス朝復権の謀議を画策した。血統上、カラカラ帝の従姉にあたるソエミアスは自身が夫との間にもうけた子息アウィトゥスが先帝カラカラの隠し子であると主張して反乱を起こした。戦いは既に帝位にあったマクリヌス側の敗北に終わり、セウェルス朝復権を名目としてわずか14歳のヘリオガバルスが皇帝に即位した。
彼の統治は今までに登場した如何なるローマ皇帝達をも越える、ローマ史上最も特異な君主であったと言える。ヘリオガバルスは放縦に興じ、色欲に明け暮れた。更にその性癖も特殊で大衆を驚かせた。また、宗教面でも従来の慣習や制度を無視してエル・ガバルを主神とするなど奇抜な政策を行った。
ヘリオガバルスの異色の性生活についての話題は、彼の政敵によって誇張された部分があるとみられているが、後世のキリスト教保守派の歴史家からもあまり良く無い評価を受けている。とりわけヘリオガバルスは近世の歴史家に忌み嫌われたが、当時の保守的な世相から考えれば当然であった。『ローマ帝国衰亡史』で知られる18世紀の歴史家エドワード・ギボンにいたっては「醜い欲望と感情に身を委ねた」として「最悪の暴君」とかなり酷い評価を下している。[ローマ帝国衰亡史] 。19世紀前半のドイツの歴史家バルトホルト・ゲオルク・ニーブールもまた、主著『ローマ史』のなかでヘリオガバルス帝は異常であったと論評している。近年では母や祖母の影響、異様な若さ、性別に違和感を抱えていたことから同情的な見方をされることも多く、彼を主人公にした作品の舞台が上映されるなど、好意的な評価を受ける事も多い。
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