京都府綾部市黒谷町およびその周辺で作られる、楮を主原料とした丈夫で素朴な美しい和紙。

黒谷とは
京都府の北端に位置する舞鶴湾に注ぐ伊佐津川とその支流である黒谷川の合流する峡谷に、黒谷町はあります。周囲を高い山に囲まれ、川沿いの僅かな平地に集落が形成されています。国道27号線から黒谷橋を渡ると黒谷和紙会館に向かう細い道が続き、黒谷川にそって民家が並んでいますが、かつては紙漉きで生計を立てていた家がほとんどだったそうです。その集落の奥には熊野神社がありますが、厳かで立派な社殿は今でも集落の守り神のようです。冬には雪が積もり、谷には深い霧がかかる厳しい気候は、日本海側の舞鶴のそれを思わせます。
黒谷の歴史
およそ800年前のこと。戦に破れた平家の落武者が洛中からの追手を逃れ、黒谷の山里に隠れ住み、生活の糧として和紙づくりを始めたといわれています。その後、織田信長・豊臣秀吉に仕えた谷 衛友(たに もりとも)は、藩主として、1万6000石の丹波国山家(やまが)を拝領しました。山家は山地が多く、稲作に適していなかったので、林業や特産品である和紙づくりが藩財政を支えていました。幕末の石高はわずか24石余でしたが、明治5(1872)年の調査では戸数は76を数え、そのうちの67戸では紙漉きを生業にしていたのです。
和紙づくりの歴史
自生の楮(こうぞ)を原料に、黒谷川の水を利用しての和紙づくりは、良質の紙をつくる条件に恵まれていました。現存する最古の紙として、文禄2(1593)年の「区有文書」が黒谷村には残っています。主に生活必需品としての障子紙や提灯紙などを作っていましたが、寛政年間(1789~1801)の頃から京都への販売を目的に、紙漉きの改良を図りました。京呉服に使う「たとう紙」「値札紙」「渋札(しぶふだ)紙」などが作られました。また明治以降、養蚕業の発展に伴い、「繭袋」などそれに関連した紙も作られるようになります。以来、紙漉きは黒谷の主な産業としてますます盛んになります。そして、市場の確保と品質を向上させるため、明治41(1908)年に黒谷製紙組合が結成されました。
黒谷和紙の今
昭和30年代になり、洋紙の需要が増加すると各地の和紙産業が衰退してゆきます。そのような状況のなかでも、黒谷和紙は伝統的な古法の手漉き技術を守り続けます。はがきや便箋、美術紙や工芸紙といった日常使いの紙や商品を開発し、日本を代表する和紙の産地の一つとなりました。黒谷和紙会館の2階には、黒谷和紙の貴重な歴史的資料が所狭しと陳列されていますが、「区有文書」や「繭袋」をはじめ、アメリカの著名な現代美術家のジャスパー・ジョーンズが黒谷和紙に摺った版画や、黒谷和紙組合から昭和45(1970)年に発行された、黒谷和紙の総てとでもいうべき『紙すき村黒谷』という美しい本なども展示されています。黒谷製紙組合は平成5(1997)年に黒谷和紙協同組合となり、現在組合員の紙漉き職人は11名。作られた和紙は加工され組合を通じて全国に流通されています。
原料の楮
和紙の原料には三椏(みつまた)や雁皮(がんぴ)もありますが、黒谷和紙では主に楮を使っています。その理由としては、楮は三椏や雁皮に較べて、成長が早いことが上げられます。三椏や雁皮ははがきや便箋などの書き物に向いていますが、楮は障子や巻き物といった長いものを漉くのに向いているからです。紙にできるのは原木の5%にすぎないといわれているので、木の成長が早いということはとても重要なことです。楮の苗を作り、秋か翌年の春に本畑に移すと、次の年の秋には収穫できるようになります。霜が降りて楮の葉が落ちると収穫の時期が到来です。収穫した楮は、長さを揃えて蒸し器に入れられます。老若男女を問わずコミュニティで紙漉きの準備をしているのも、黒谷の大きな特徴かもしれません。
楮へぎと楮もみ
「へぎ」とは、漢字を当てると「折ぎ/剥ぎ/片木」となり、「薄くはぐこと。また、薄くはいだもの」という意味です。収穫した楮を蒸して、できるだけ早く皮を剥くと、きれいに剥けます。現在、物部地区白道路(はそうじ)町には、10年前に大型灯油ボイラーが設置され、ここで蒸しあげたものを、機械を使わず、人の手で1本1本へいでいきます。その中に75歳まで紙漉きをされていた91歳の女性がおられますが、「へぎ」作業は実に手際よく、あっという間に黒皮が剥かれてゆきます。それを十分に乾燥させたものを順次、川に浸し足で揉んで、皮を削りやすくします。それから包丁で表皮と疵を取って、上等な白皮の部分だけにします。できあがった楮の白皮を黒谷川でゆすいで干し、太陽や雪に晒します。
煮ごしらえと楮煮
楮の白皮を煮る前にもう一度、川に二昼夜ほど浸して晒します。これにより白皮は一層美しさを増します。次にその白皮を煮ます。大釜の湯にソーダ灰を入れ、楮をほぐしながら入れてゆきます。楮の上下を返しながら1時間くらい炊くと、灰汁が出て真っ黒になります。灰汁を取り、火を止めてやはり1時間くらい蒸します。上質の和紙を作る場合には、昔ながらの木灰を使う場合もあります。柔らかくなった楮を川で水洗いし、灰汁や小さな塵を取り除きます。
紙たたきと「さな」ねり
特別な紙は手で、普通の紙は動力の臼で1時間くらいたたきます。その後、ビーターという機械でほぐして、どろどろの繊維状になったものを紙素(しそ)といいます。繊維と繊維をつなぐ糊料の原料である「トロロアオイ」の根を水洗いして、石の上で木槌でたたきつぶ して布袋で漉したものを「さな」といいます。
紙漉き
漉き舟に水を半分くらい入れ、そこに小さな手桶一杯分くらいの紙素を入れます。「馬鍬(まぐわ)」と呼ばれる竹の櫛状の道具で繊維をほぐし、「さな」を加えて、細い竹の棒で混ぜ合わせます。 桁(けた)という木枠の間に簀(す・細い竹の簾)を挟み、漉き舟の上水を手前に下げて浅く汲みこみ、上水を勢いよく前方へ流して捨てます。その動作を繰り返しながら紙を漉いてゆきます。
漉き上がった紙は、簀をはがして次々に重ねます。翌日、その上に板を乗せて圧搾し、水を切ります。冬場は水も冷たく大変な労働ですが、昔から紙漉きの仕事は女性が多いといいます。
紙つけ
干し板は松の木やいちょうの木を多く使っています。美濃は橡(とち)の木を使う場合が多いようです。いろいろな用途の紙を漉く黒谷ではサイズが58×200cmの大きさの干し板が一般的です。この干板に一枚一枚刷毛で貼り付け、天日で乾燥させます。天気がよければ3時間くらい、雨の日では1日くらいで乾きます。最後に紙を選別し、枚数を数えて揃えます。
加工部の仕事
黒谷和紙会館に隣接する公民館の1階では漉き上がった和紙を使って型染めがおこなわれています。福知山在住の金山ちづ子さんは、黒谷和紙の型染めを50年続けてこられました。型紙を使って、はがきや名刺入れなどの小物から、『紙すき村黒谷』のさし絵まで多くの作品を残されましたが、2年前に引退されました。今は若い女性が金山さんの型紙と技術を受け継いでいます。型染めの前工程で行う「糊おき」に使用する糊は、ぬかや米粉といった自然のものであり、染める顔料の定着には呉汁(ごじる)という大豆の絞り汁を使用しています。そのため顔料の定着までには1ヶ月ほどの期間を要し、その後、長い年月を経て「色が枯れ」味わいの深いものになってゆきます。また2階では、型染めされた和紙で名刺入れ、ぽち袋、便箋・封筒などを加工部の女性たちが作っています。
黒谷和紙工芸の里
平成17(2005)年、閉校した「口上林(くちかんばやし)小学校」を改装して「黒谷和紙・工芸の里/和紙工芸研修センター(京都伝統工芸専門学校)」がオープンしました。元校舎を利用して、煮ごしらえ〜楮煮〜みだし〜紙たたき〜ビーター〜紙漉き〜押し〜乾燥〜加工までの一連の作業をここで見て、一部体験することもできるようになりました。そこには紙漉きのすばらしい技術を、世界中の多くの方に知ってもらいたいとの願いが込められています。
黒谷和紙製品
1階の展示即売室にはたくさんの黒谷製品が並んでいます。これは一部の印刷や染めを除いて、すべて黒谷町の加工部の手仕事で、京都府より「京もの指定工芸品」の認定を受けています。
次代に伝える
かつては秘境と謳われた黒谷で800年もの間、受け継がれてきた和紙づくりですが、代々続けている組合の職人はただ1人になってしまいました。ほかの10名のうち8人は都会から来た人たちです。黒谷の自然に魅せられた人、紙漉きに憧れた人など、それぞれ理由はありますが、自然の厳しさとその恵みに感謝しながら今日も紙を漉いています。この黒谷和紙の手触りや美しさを生み出す技術と心を、1人でも多くの人に伝えたいと願いながら。
黒谷和紙協同組合
立命館大学アート・リサーチセンター 協力:京都女子大学
提供: ストーリー

資料提供&協力: 黒谷和紙協同組合

監修&テキスト: 上野昌人

編集&プロジェクト・ディレクター: 前﨑信也 (京都女子大学 准教授

提供: 全展示アイテム
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