漢字の伝播

京都国立博物館

中国で発明され、東アジアの共通言語として使用されてきた漢字は、はかり知れない文化的価値をもっています。

漢字が伝える情報には、人々の日常の営みから、宗教の奥義、国の歴史まで、東洋の英知が詰まっているといえるでしょう。しかし、漢字はただ情報を伝えればよいというわけではなく、その字すがたには完璧な美も求められました。古人が一文字一文字に背負わせた歴史や思想、そして美を、京都国立博物館所蔵品から見出してみてください。

宋拓十七帖 王羲之(4世紀)

その書き出しが「十七」とあることから、十七帖と呼ばれている法帖であり、東晋の王羲之(おうぎし)(303~61)の草書の名品として名高い拓本である。その大部分は、蜀の周撫(しゅうぶ)にあてた尺牘(せきとく)(手紙)と見られている。

現在伝わるのは石刻からの拓本のみであるが、この上野本は「館本」と呼ばれているもので、末尾に「勅」の大字があり、その下に「付直弘文館、臣解无畏勒充館本、臣褚遂良校無失、僧権」との跋語が見えている。そこには、弘文館の師弟に与えて習字の手本とする為に、褚遂良(ちょすいりょう)が校合し誤りなく石刻した旨が記されている。

この拓本は、清の康煕年間には清朝の書家として名高い姜宸英(きょうしんえい)(1628~99)の所蔵であったものが、その後、羅振玉(らしんぎょく)の手を経て上野有竹斎に譲渡された拓本である。十七帖中の屈指の名品として夙に知られており、「上野本十七帖」と呼ばれている。

世説新書巻第六残巻(7世紀)

南朝宋の文学者、劉義慶(りゅうぎけい)(403~44)が編集した逸話(いつわ)集で、一般には『世説新語』と呼ばれているもの。『世説新書』は、漢末から東晋にかけての名士の言行と逸事を収録したもので、当時の士族階級の生活ぶりや社会の雰囲気を反映した内容となっている。

これは、その巻第六の残巻であり、「規箴(きしん)」の後半と「捷悟(しょうご)」の全文までを収めている。書写年代は、力強く端正、かつ典雅な字すがたであることや上質な料紙を用いていることから、唐時代でも7世紀と見て間違いなく、唐時代の写本のすばらしさが窺われる優品である。また本文には、朱書のヲコト点・仮名、墨書の書き入れなどもあり、漢籍の訓点資料としても重要な一巻となっている。

長らく、京都・東寺に伝来していたものであり、紙背には、平安時代後期と見られる『金剛頂蓮花部心念誦儀軌(こんごうちょうれんげぶしんねんじゅぎき)』も写されていることから、早くにわが国に将来されたことが知られる。

玉篇巻第九残巻(7−8世紀)

『玉篇』は、中国の漢字字書で、南朝梁の大同年間(535~46)、顧野王(こやおう)によって著され、もと30巻からなるもの。後漢の許慎(きょしん)が著した『説文解字(せつもんかいじ)』についで古い字書で、部首別に配列されており、語義の解釈は音義を主とし、各字の下にまず反切(はんせつ)を注し、つぎに群書の訓詁を引くものである。

この残巻は、3紙分が連続しており、現在早稲田大学に所蔵されている国宝『玉篇』巻第九から遅くとも江戸時代には離れていたもので、この部分は、巻第九に収められている「冊部第一百八 凡四字」の最初の「冊」の字釈の途中から「欠部第一百十二 凡一百三字」の第四十字目の「■<敫-攵+欠>」字までである。その字すがたから書写年代は唐時代7世紀から8世紀と見られる所謂「唐鈔本(とうしょうほん)」であり、紙背は治安元年(1021)8月に書写された『金剛界私記』の一部であることが知られる。この紙背より、遅くとも平安時代中期までにはわが国にもたらされていたことがわかる。

大宝積経巻第三十二(高麗国金字大蔵経)
1006年

高麗時代の統和24年(1006)に千秋太后皇甫(せんしゅうたいごうこうほ)氏がその寵臣金致陽(きんちよう)と同心発願して書写せしめた紺紙金字一切経のうちの一巻であり、その一切経で現存するのは本巻のみという稀有な遺品である。

わが国や韓国に伝来する高麗時代の写経で、11世紀に遡る作品は、2、3件であろうが、それらの中では最も古い。表紙には銀泥で宝相華唐草文、見返しには同じく銀泥で三菩薩が散華供養している様子が描かれており、制作時期が特定できる絵画資料としても非常に重要な作品となっている。

料紙は厚手の紺紙で、堂々とした重量感あふれる一巻であり、経文の文字は崔成朔(さいせいさく)なる人物が書写したやや大ぶりな字形となっており、遼や契丹の影響を受けたと見られる力強く端正な字すがたを見せている。中国・朝鮮半島・日本という漢字文化圏を見渡しても、非常に貴重な一巻ということができる。
見返しの左端には、嘉慶2年(1388)近江の金剛輪寺に施入された旨の朱書がある。

浄名玄論
紀元前706年

『浄名玄論』8巻は、中国・隋時代に三論宗の教学を大成した嘉祥大師吉蔵(かしょうだいしきちぞう)(549~623)が著した『維摩経(ゆいまきょう)』の綱要書である。

この写本は、巻第四と巻第六に慶雲3年(706)12月の奥書を有しており、紀年を用いて書写年代を明らかにしたわが国最古の写本であり、仏典である。古写経史上稀覯の遺品であるが、ただ8巻のうち、巻第一は平安時代、巻第二と第五は鎌倉時代の補写本であり、巻第七と巻第八を除く他の3巻も巻首が補写されている。

このような経疏章(きょうしょしょう)(主に中国において著された注釈書や撰述書の類)は、1行17字詰めという規格や書体にこだわらずに自由な筆致で書写されることが多い。料紙には楮紙が用いられ、六朝風の趣を湛えた書体は書道史上でも貴重なものである。
 また各巻には白点をはじめとした訓点があり、国語学上からも重要な資料となっている。

金剛般若経開題残巻(9世紀)

弘法大師空海(774~835)が著した『能断金剛般若波羅蜜経(のうだんこんごうはんにゃはらみつきょう)』(唐・義浄(ぎじょう)訳)という経典の開題で、空海自身の筆になるものである。

開題とは、仏教経典の経題(経典名)を解釈し、その大要を述べることをいうが、空海は密教的な立場から「顕略(言葉による浅くて略した解釈)」と「深秘(深く秘められた解釈)」という二つの観点より経題を解釈している。

本巻は、奈良国立博物館本などの残巻や手鑑などに貼り込まれた断簡などの中では最も長く、「是の如く四行の中に無量の徳を具す」から「五色の修多羅を亦、経と名づくるが故に」までの63行を存している。

全体は、草書体に行書体を交えて書かれており、処々に抹消や修正の跡が見られることから、草稿本と考えられる。草稿本だけに、かえって三筆の一人、空海のありのままの筆跡を伝えるものとして興味深い一巻である。

日本書紀巻第二十二・巻第二十四(岩崎本)(10世紀)

『日本書紀』は、奈良時代に編纂されたわが国最古の勅撰の正史で、神代から持統天皇までの朝廷に伝わった神話・伝説・記録などを漢文で記録した編年体の史書であり、全体は30巻からなっている。

この2巻は、もと旧三菱財閥の本家・岩崎家に収蔵され「東洋文庫」にある「岩崎文庫」に納められていたことから、一般にこれを「岩崎本」と呼んでいる写本である。「冠位十二階」や「十七条憲法」などの聖徳太子に関わる記事を収録する「推古紀」(巻第二十二)と蘇我蝦夷・入鹿親子の台頭や乙巳の変の記事がある「皇極紀」(巻第二十四)が伝存しており、書写年代は訓点や字すがたから、平安時代10世紀と見られる。

両巻は、本文に朱書の仮名・ヲコト点・声点(平安時代中期)、墨書の仮名・ヲコト点(院政期)という極めて古い時期の訓点が施された『日本書紀』の最古の訓点本、

更には室町時代を代表する学者でもあった一条兼良が二度にわたって加点をしているという、国語学上でも非常に重要な訓点資料としてよく知られている。

妙法蓮華経如来神力品・嘱累品(一字蓮台法華経)(11−12世紀)

経文の一字一字が彩色を施された蓮台の上に奉安されている、いわゆる「一字蓮台法華経」の遺品である。銀界が引かれた料紙に書写されている経文は、やわらかみを帯びながらも一点一画をゆるがせにしない端正な楷書である。

如来神力品第二十一の蓮弁は、各行のはじめより群青、丹、緑青、銀泥の順にくり返して彩色されており、横へと展開するパターンである。ただし、銀泥は一行ごと交互に白描と銀泥となっている。残念ながら、末尾の偈頌十六偈(げじゅじゅうろくげ)を欠いている。

嘱累品第二十二の蓮弁は、丹、緑青、群青、金泥、銀泥で彩色されており、その彩色の織りなすパターンは、如来神力品よりも複雑になっている。丹を中心点とした菱形文様の間を緑青の菱形文様で埋め、更にその間を菱形文様を基調にした群青、金泥、銀泥で彩色するというものである。
 まさにこの遺品は、経文の一字一字を如来の分身と捉え、経文を「仏語」そのものとして真摯に受け止めた作品と位置づけられる。

仏説四十二章経(十三世紀)
大覚禅師(蘭渓道隆)筆

『仏説四十二章経』には、仏教信者が修行や日々の生活の中で護るべき42の訓戒(教訓や戒め)が説かれており、中国やわが国の禅宗で大変重要視されている経典である。
これは、末尾に「蘭谿」と「道隆」という朱の印が捺してあることやその筆跡が南宋時代の書家として名高い張即之(ちょうそくし)の影響を受けたものであることから、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が書写したものであることがわかる。

蘭渓道隆(1213~78)は、西蜀、今の四川省の生まれ。13歳の時、成都にある禅寺で出家し、その後、江南の禅寺を歴訪し、寛元4年(淳祐6年、1246)に弟子らとともにわが国に渡り、鎌倉幕府の執権であった北条時頼(1227~63)の帰依を受けて鎌倉・建長寺の開祖となり、鎌倉地方の禅宗の基礎を築いた人物である。

弘安元年(1278)7月24日に亡くなり、その直後に亀山上皇から「大覚禅師」という諡号を受けた。
もとは半面6行(1折12行)の折本であった。

提供: 全展示アイテム
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