武士の文化

京都国立博物館

武士の文化
中世、武芸を生業として歴史の表舞台に立ったのが武士です。社会的地位と経済力を手に入れるにつれ、彼らはさまざまな美術工芸品を生み出す母体となっていきます。武威の象徴である刀剣や鎧、戦国大名が歴史の主役となった桃山時代の衣装や絵画などを見れば、武士が猛々しいだけではなく高い知性や教養を備えた存在であったことは明らかです。ここでは、そんな武士の文化をすこしだけ覗いてみることにしましょう。

騎馬武者像(14世紀)

大鎧(おおよろい)を着て黒馬に跨がり、右手に抜き身の大太刀をもって肩に担ぎ、左手で手綱をとる武将を無背景に描いている。兜(かぶと)は被らず、髪を振り乱して、箙(えびら)の矢が折れた姿で乗馬している。

前方を見据える大きな目は鋭く、武具は細部まで緻密に表現され、彩色も美しい。黒馬が腰を落として前足を挙げ、たてがみが目にかかる様は動勢に満ちている。制作途中に、左手に掛けられていた弓が消されたことが、修理中に判明している。

礼拝の対象となる肖像画は静止的に描かれるのが常であるが、本図は絵巻の合戦場面から抜け出してきたかのようであり、戦場で獅子奮迅する姿であろう。

像の頭上には室町幕府第2代将軍足利義詮(あしかがよしあきら)の花押が書かれているので、義詮の没年である貞治6年(1367)以前の制作と知れる。甲冑を着て騎馬姿で描かれる武家肖像画の最初期の遺例であるが、後に定型化する姿とは全く異なっており、この種の武家肖像画の成立の事情を暗示している。

松平定信の編纂による『集古十種』(寛政12年<1800>序文)に掲載された足利尊氏像と酷似することから足利尊氏像とされてきた。その後、腰に吊す太刀と馬具の鞖に輪違が描かれ、高家の家紋が輪違紋であること等から、像主が高師直(こうのもろなお)、あるいはその子師詮ではないかとする説が提示されているが、いずれも確定していない。

紫糸威鎧(19世紀)

島津斉彬(しまづなりあきら)(1809~58)所用と伝える大鎧。大鎧とは、本来は平安時代から鎌倉時代にかけて使用された上級武士用の甲冑で、基本的に騎馬武者が着用し、馬上からの弓射による戦闘を想定して発展したもの。南北朝以降、戦闘の主体が徒歩(かち)による集団・接近戦になるにつれ、次第により軽量な胴丸や腹巻といった取り回しの良い甲冑にその座を奪われ、鉄砲が伝来した室町時代末期には機能面でこれらを凌駕する当世具足(とうせいぐそく)の出現により実戦で用いられることはほぼ皆無となった。しかしながら、戦乱が終わり江戸時代になると、その格式の高さから大名家などで権威の象徴として新たに誂えられることとなる。

本品も、胴に栴檀板(せんだんのいた)と鳩尾板(きゅうびのいた)を下げ、脇盾(わいだて)・兜・大袖(おおそで)をそなえるといった大鎧の形状を踏襲しつつ、これに頬当(ほうあて)・籠手(こて)・佩盾(はいだて)・臑当(すねあて)など当世具足の要素を加えた復古鎧である。各所に打たれた大きな据紋金具(すえもんかなぐ)は島津家家紋である丸に十字紋で、一説によると、これら錺金具(かざりかなぐ)に施された鍍金(ときん)は日本初の電気メッキであるという。

大藩の藩主にふさわしく、細部まで入念に手が加えられた逸品で、鎧としての完成度の高さに加えて、付属品である装束類から幕末期の大名家における復古鎧の理解と認識を知る上で極めて貴重な作品といえる。

桐矢襖文様胴服(16世紀)

胴服は現在の羽織の原形で、戦国時代の大名に愛好された上着である。これは肩に紫の壺垂れ文様、裾に萌葱の矢襖文様を配して上下を区切り、一種の肩裾文様の構成としながら、肩裾文様では文様を入れずに白地のままにしておく腰の部分に、光沢のある生地の美しさをいかしつつ、萌葱・紫・浅葱に染め分けた桐文様を散らした、洒落な意匠の1領である。天正18年(1590)、豊臣秀吉が北条氏を攻めた小田原合戦に際し、陣中見舞を届けた南部信直に秀吉が与えた胴服と伝えられ、南部家に伝来した。

文様はすべて絞り染のみで表現され、描絵や刺繡などの技法を一切併用しない。細かな縫い締め絞りによって防染したうえで、色数に応じて染液への浸け染めを繰り返すこの種の絞り染では、明確な輪郭をもつ文様を染め上げるために、多くの手間と高度な技術が必要である。

近代の研究者によって、この種の技法は辻が花染と定義されたが、中世の文献に記される辻が花染は、絹ではなく主に麻地に染めるものであり、絞り染であったかも定かではないことが指摘されている。

飲中八仙図屏風(1602年)
海北友松筆

唐の杜甫(とほ)『飲中八仙歌』にちなむ主題。現状、酒豪(酒仙)は4人だが、あと4人を描いた右隻があったのだろう。

作者の海北友松(1533~1615)は武家出身の絵師である。少ない筆数で身体を表わす中国南宋の梁楷(りょうかい)の「減筆体(げんぴつたい)」にならう海北友松独特の人物描法は、後世「袋人物」と愛称されることになる。その好例であり、はつらつとした動きがあって画面に快活なリズムを刻む墨描、張りのある豊かなフォルム、酒仙たちの顔の表情の描き分け、さらに松や岩の丸みを帯びた柔らかな形体、濃淡を効かせた水墨描がすばらしい。

左端の款記「此画図之事任御好染形也因幡鹿野之館可有翫見御消息一入振肘畢慶長七年陽月哉明江北海北友松書之」から、この屏風は、慶長7年(1602)10月3日、因幡国鹿野の城主である亀井茲矩(これのり)(1557~1612)の依頼によって制作したものであることが判明する。友松の作品には、制作年が判明するものは極めて少ない。その点、この屏風は、制作年の判明する基準的な作例として貴重な遺品といえる。

堀江物語絵巻(17世紀)

執拗なまでの装飾性をしめす極彩色絵巻、いわゆる「又兵衛風絵巻群」のひとつ。岩佐又兵衛(1578~1650)は、戦国武将荒木村重の子で、誕生翌年、織田信長により一族ほとんどが斬殺されるが、救出され京都で絵師として成長。40歳ころ越前福井に移住、藩主松平忠直・忠昌に仕え、「又兵衛風絵巻群」を制作したとみられている。描かれた毒々しいまでの凄惨な場面は、その生い立ちと重なる。

室町時代成立の御伽草子の物語『堀江物語』は、両親を殺された月若が成長して仇をとる話。有名なMOA美術館蔵「堀江物語絵巻」12巻はダイジェスト版。より描写が丁寧で、制作時期もより早い20巻規模と想定される「堀江物語絵巻」があり、うち6巻分の現存が確認されている。

香雪美術館の3巻および三重県個人蔵1巻、長野県長国寺蔵1巻、そして京都国立博物館蔵の本作。最終巻にあたる長国寺蔵1巻の直前の巻で、主人公が仇討ちを果たすクライマックスシーンが描き綴られている。

太刀 銘則国(13世紀)

王城の地である京都には古くから多数の刀工が居住して刀剣の製作に携わった。その中で、平安時代末から鎌倉時代にかけて粟田口に居住した刀工群を「粟田口派」と呼ぶ。後鳥羽上皇の御番鍛冶と伝える国友・国安を含む久国・国清・有国・国綱の六兄弟がつとに名高く、この太刀の作者である則国は国友の子とされる。

本来は刃渡3尺近い長寸の太刀であったが、使い勝手を良くする為に現状では磨上(すりあげ)て短くし、茎尻にやや太目の鏨で「則国」と二字銘が残っている。細身で鋒(きっさき)の先端が小さく、また伏(ふ)さり気味となり、反りの中心がやや腰寄りになる。

これらの特徴が刀身全体に引き締まった印象を与え、後世の手が加えられ本来の姿とは異なっているにもかかわらず、総体的なプロポーションに一切の破綻がない。優美な曲線から構成される凛として雅な太刀姿は、鎌倉時代でも早い段階の京刀の特色をよく示している。地鉄(じがね)は小板目がよくつまった鍛えで、刃文は小足や金筋が入り、浅くのたれた細直刃(ほそすぐは)と、山城鍛冶が得意とした作行を示す。この清涼感さえ感じさせる焼刃と無類の緻密さを誇る地鉄は、京刀のみならず日本刀全体を代表する出色の出来栄えといえる。まさしく王者の品風格を備えた漂わせた名刀である。

短刀 銘伊賀守金道(16~17世紀)

平安時代から南北朝時代にかけて繁栄を見た山城鍛冶も、南北朝時代の終わりから室町時代に入ると、戦乱による京都の荒廃に加えてと日本最大の鍛冶勢力・備前鍛冶や新興の美濃鍛冶といった他国の刀剣に押されて衰退した。やがて、群雄割拠の時代をむかえ、新たに生まれた戦国大名らがこぞって上洛を目指しだすと京都は再び活気を取り戻し、信長の二条城築城や、秀吉の聚楽第、伏見城の構築などに呼応して種々の職人が移住した。

その中で、16世紀末に美濃から移住してきた兼道(かねみち)を祖とする一派が「三品(みしな)派」である。兼道の子である伊賀守金道・和泉守金道(いずみのかみかねみち)・丹波守吉道(たんばのかみよしみち)・越中守正俊(えっちゅうのかみまさとし)はみな一流の名工で、中でもこの短刀の作者である伊賀守金道は後に代々「日本鍛冶惣匠」を名乗り、朝廷への受領願の斡旋を一手に行うことで全国の刀工達の総領として君臨した。

初代・伊賀守金道の手による本品は、いわゆる「寸延短刀」と呼ばれるやや長めのもので、板目肌に柾目がかって肌立つ鍛えの地鉄に、皆焼(ひたつら)風の飛焼(とびやき)や、簾刃(すだれば)を交え、砂流(すながし)のかかった錵(にえ)の強い刃文を焼く。帽子はのたれ込んで小さく、深く返るが、これは三品派の作品に顕著な特徴で「三品帽子」と通称されている。総身に気魄が漲り、微細な金属結晶の輝きと、華麗な刃文で観る者を魅了する優品である。後に丹波守吉道が完成させた簾刃の萌芽が見えることから、一族間での技術研鑽の背景が垣間見え、資料的な価値も高い。


寒山拾得図縁頭 越前大橡長常(18世紀)

刀剣はその着用にあたり、刃身を納める鞘や持ち手となる柄をはじめ、様々な部品を必要とし、これらをまとめたものを「拵(こしらえ)」と呼ぶ。優れた刀剣の産地周辺には、刀剣を飾り、実用に供すために欠かせない刀装具の工人が自然と参集した。平安時代以降、多くの刀工が居住し、数々の名刀を生み出してきた京都も例外ではなく、もともと神社仏閣の金具を製作してきた錺師(かざりし)の技術体系などを受け継ぎ、高い技術を持った刀装具の工人が多く生まれた。

寒山拾得図縁頭 越前大橡長常(18世紀)

一宮長常(いちのみやながつね)(1721~86)は江戸の横谷宗珉(よこやそうみん)(1670~1733)と並び称される京都の名工。円丸山応挙(まるやまおうきょ)の師である石田幽汀(いしだゆうてい)に画技を学んだ長常の作品は、彫金技法の巧みさのみならず、基礎となる図案の構図と描写力がに抜群であり、華やかで洒脱な都の空気の体現者と言える。

寒山拾得図縁頭 越前大橡長常(18世紀)

本格的な絵師に師事した長常は、自作に用いた図案をまとめたデザイン帳(「夏雄大鑑補講一宮長常彫物画帳」東京国立博物館所蔵)を遺しており、本品の下図もそこに所載されている。銅と銀を4対1の割合で混合した四分一(しぶいち)(朧銀)の本体に、得意の片切彫で図案を忠実に再現する手並みは鮮やかで、鏨の運びにいささかの迷いもない。

提供: 全展示アイテム
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