1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、広島は世界で初めて原子爆弾による被害を受けました。まちのほとんどが破壊され、多くの人々の生命がうばわれました。かろうじて生き残った人も、心と体に大きな痛手を受け、多くの被爆者がいまなお苦しんでいます。

原爆の惨禍からよみがえったヒロシマの願いは、核兵器のない平和な社会を実現することです。

広島は、江戸時代に城下町として栄えていました。明治以後、高等師範学校が開校し、学都として、また、陸軍の施設が集中し、軍都としても発展を遂げていました。被爆当時は約35万の人がいました。

被爆当時の広島 所蔵/広島平和記念資料館

現在の原爆ドームは、チェコの建築家ヤン・レツルが設計し、1915年(大正4年)4月5日に竣工、同年8月5日に「広島県物産陳列館」として開館した建物でした。1921年(大正10年)に「広島県立商品陳列所」、1933年(昭和8年)に「広島県産業奨励館」と改称され、物産の展示・即売、美術展覧会、博覧会などが行われていましたが、戦時中は官公庁などの事務所として使用されていました。

絵葉書「広島県立商品陳列所」 提供/浜本 重美氏 所蔵/広島平和記念資料館
リトルボーイ   所蔵/広島平和記念資料館

原子爆弾は、ウランやプルトニウムが核分裂するときに発生するエネルギーを兵器として利用したもので、通常の爆薬に比べるとはるかに大きな破壊力をもっています。さらに、核分裂の際に発生するガンマ線や中性子線などの放射線は、長い期間にわたり人体に深刻な障害を与えます。広島に投下された原子爆弾は、長さ約3メートル、重さ約4トン、開発当初の設計よりも短くしたためリトル・ボーイ(少年)と呼ばれていました。約50キログラムのウラン235が詰められていたとされていますが、このうちの1キログラムにも満たないものが瞬間的に核分裂し、高性能爆薬の1万6千トン分に相当するエネルギーを放出しました。

1945年8月6日午前8時15分 きのこ雲  提供/米軍 所蔵/広島平和記念資料館

1945年(昭和20年)8月6日。人類史上最初の原子爆弾が広島市に投下されました。

原子爆弾は、地上600メートルの上空で目もくらむ閃光を放ってさく裂し、爆心地から半径2キロメートルに及ぶ市街地の建物が跡形もなく壊され焼きつくされました。人が身につけていた衣服は、強烈な熱線によって焼け焦げました。ほとんどの人々は、血みどろになったボロボロの衣服を、わずかに身にまとい、瓦れきの街を逃げ惑ったのです。

空撮写真 被爆直前の広島  提供/米軍 所蔵/広島平和記念資料館
空撮写真 被爆直後の広島 提供/米軍 所蔵/広島平和記念資料館
パノラマ写真「広島県商工経済会から市内中心部を望む」 撮影/林 重男氏 所蔵/広島平和記念資料館

遺品は語る

一瞬にして街のほとんどが壊滅し、多くの尊い生命が奪われました。そのなかには、建物疎開作業に動員された中学生や女学生など、作業現場に遺品を残しただけで、遺体はおろか遺骨さえ肉親の元に戻らなかった人たちも多かったのです。ここに紹介している遺品の多くは、肉親の人たちがその安否を気遣って、焦土の中を探し求め、見つけだされたものです。これら一つ一つには、人々の苦しみ、悲しみ、怒りが込められ、このような悲劇が繰り返されることのないよう、静かに語りかけています。

懐中時計  寄贈/二川 一夫氏  所蔵/広島平和記念資料館
女学生の夏服   寄贈/大下 定雄氏  所蔵/広島平和記念資料館
遺髪  寄贈/日室 雅恵氏  所蔵/広島平和記念資料館
弁当箱  寄贈/折免 シゲコ氏  所蔵/広島平和記念資料館
三輪車   寄贈/銕谷 信男氏    所蔵/広島平和記念資料館

熱線による被害

原子爆弾の爆発の瞬間、空中に発生した火球は、0.3秒後には直径200メートルを超える大きさとなり、その表面温度は、7,000度にも達しました。そして、火球から放射された熱線は人にも、物にも大きな被害を与えました。人が身につけていた衣服は、強烈な熱線によって焼け焦げました。

中学生の学生服  寄贈/谷口 順之助氏  所蔵/広島平和記念資料館
焼き抜かれた文字(商品ラベルの紙片) 寄贈/渡辺 澄男氏  所蔵/広島平和記念資料館
人影の石  寄贈/住友銀行広島支店  所蔵/広島平和記念資料館

爆風の影響

爆発の瞬間、爆発点には数十万気圧という超高圧がつくられ、まわりの空気が大きく膨張して強烈な爆風が発生しました。

その圧力は、爆心から500メートルの所でさえ、1平方メートル当たり19トンに達するという強大なものでした。

このため、ほとんどすべての建物が押しつぶされ、人々も吹き飛ばされ大きな被害を受けました。この爆風により、人々は何メートルも吹き飛ばされ、失神する人や負傷する人、倒れた家の下に押し込められて圧死する人などがあいつぎました。

爆風はあらゆる窓ガラスを砕き、人々の体内に容赦なく、無数のガラス破片をくいこませました。現在でも、体の異常を訴える人の体内からその時のガラスの破片を取り出すことがあるほどです。

ゆがんた鉄扉  寄贈/広島県  所蔵/広島平和記念資料館
体内から取り出されたガラス片  寄贈/小坂 千世子氏  所蔵/広島平和記念資料館
ガラス片が突き刺さった和ダンス   寄贈/土井 寛氏   所蔵/広島平和記念資料館

放射線による被害

原子爆弾の特徴は、通常の爆弾では起こらない大量の放射線が放出され、それによって、人体に深刻な障害が及ぼされたことです。放射線は、人体の奥深くまで入り込み、細胞を破壊し、血液を変質させるとともに、骨髄などの造血機能を破壊し、肺や肝臓等の内臓を侵すなどの深刻な障害を引き起こしました。原爆は、爆発後、長時間にわたって残留放射線を地上に残しました。このため、肉親や同僚などを捜して、また救護活動のため被爆後に入市した人々の中には、直接被爆した人と同じように発病したり、死亡する人もいました。

死の斑点が出た兵士   撮影/木村 権一氏  所蔵/広島平和記念資料館
抜けた頭髪   寄贈/山下 博子氏 所蔵/広島平和記念資料館

黒い雨

爆発後、放射性物質を含んだチリやススなどが地表から巻き上げられ黒煙となり、空気中の水滴と混じり、黒い雨となって降りました。黒い雨には放射性物質が含まれており、池や川では魚がたくさん死んで浮き上がりました。この地域で井戸水を飲んだ人々の多くは、その後3カ月にもわたって下痢をしたといいます。

黒い雨あとが残った白壁  寄贈/八島 秋次郎氏  所蔵/広島平和記念資料館
黒い雨にぬれたシャツ  寄贈/若本 徳三氏 所蔵/広島平和記念資料館

後障害

原子爆弾による障害は1945(昭和20)年末で収まったかのように見えましたが、その後もさまざまな障害が現れました。急性障害がほぼ終わったころから現れた障害を後障害といいます。ケロイドに始まり、その後は特に白内障、白血病、悪性腫瘍(ガン)、胎内被爆者の障害などの発生率が高くなりました。

背中や両腕がケロイドになった女性  撮影/米軍 所蔵/広島平和記念資料館
折り鶴  寄贈/佐々木 繁夫氏・佐々木 雅弘氏 所蔵/広島平和記念資料館
復興と墨書きされた旗  寄贈/小原 泰治氏 所蔵/広島平和記念資料館

広島の復興

広島は、原爆投下によって、都市基盤そのものが奪われました。被爆者や原爆孤児はもとより、復員軍人や引揚者、疎開先から帰ってきた人びとなど被爆をまぬがれた市民も、家や職場を失いました。しかし、市民は被爆直後の混乱期、敗戦、占領下の大変動の中で、困難にめげず、生活の再建へと立ち向かいました。

現在の原爆ドーム  撮影/広島平和記念資料館
提供: ストーリー

contributor — Kazuo Nikawa, Sadao Oshita, Masae Himuro, Shigeko Orimen, Nobuo Tetsutani, Junnosuke Taniguchi, Sumitomo Bank Hiroshima Branch, Sumio Watanabe, Hiroshi Doi, Chiyoko Kosaka, Hiroshima Prefectural Government, Hiroko Yamashita, Akijiro Yashima, Tokuso Wakamoto, Shigeo Sasaki, Masahiro Sasaki, Taiji Obara, Shigemi Hamamoto, US Army
creater — Shigeo Hayashi, Gonichi Kimura

提供: 全展示アイテム
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