8月5日、最後の日記

広島平和記念資料館

1945年(昭和20年)8月6日、県立広島第一高等女学校の1年生は、爆心地から約800メートルの土橋付近の建物疎開作業に動員されていました。原爆の投下により、多くの生徒がその場で即死、または行方不明となりました。その場を逃げ延びた生徒も、焼け落ちたわずかな衣服を身にまとい、重傷を負った体で、燃え盛る街を逃げ惑い、作業に出ていた約220名全員が亡くなりました。

ここでは、同校1年生の3人が被爆前日に書き残した最後の日記を紹介します。入学式の日に配られた日記帳は、学校や家庭でのことを書き、組ごとに先生に提出するものでした。生徒たちは、日々の生活を生き生きと個性豊かに綴っていきました。戦時下ながらも希望に満ちた入学の日からわずか4ヵ月。8月5日も普段と変わらない日常があったことが分かります。しかし、翌日、一発の原子爆弾によって多くの子どもたちの未来は断ち切られ、8月6日の日記が記されることはありませんでした。

建物疎開作業: 空襲に備え防火地帯などをつくるため、市内各所で指定された区域内にある建物を撤去する作業。8月6日も、地区特設警備隊、国民義勇隊や動員学徒が、朝早くから作業に取り掛かっていた。

熊本悦子さん(1年5組)の日記

「8月5日 日曜日 晴

起床 午前 五時〇分 就床 午後九時三〇分

学習時間 三時五〇分 手伝 毎日出来た 洗濯、風呂焚き世話、母・祖母手伝片附、食事の後片附け

起きるのが大へん遅かった。お休みなのでゆっくり御飯を炊いて皆んなおいしくいただいた。私は母のことを思ふと心配になった。」

父親の隆司(たかし)さんは、この日記をずっと大切にしていました。

最後の日記 寄贈/熊本隆聡氏 所蔵/広島平和記念資料館
最後の日記 寄贈/熊本隆聡氏 所蔵/広島平和記念資料館

(父親の手記より・要約)

「モンペに麦ワラ帽、肩かけカバンといった姿で「行ってきます」とあいさつして出かけていった。まさかこれが今生の別れとなることを誰が予知したであろう。

…午前11時、待てど悦子は帰って来ない。焦熱地獄、その中を隈なく捜し求めたが遂に見つけ出すことができず、午後6時失意のうちに帰り親戚を見舞ったところ、「悦子ちゃんがいる」という。このときほど嬉しかったことはない。だけど、全身やけどですでに五体は腫れあがり目は見えない哀れな姿であった。それでも辛うじてものは云える。声で通じる親と子の対話。翌7日朝、突然神秘的な現象が起こった。見えなかった悦子の目が開いたのである。「悦子、目が見えるか」「見える」「お父さんが分かるか」「判る」子供の嬉しそうな悲しそうな表情を最後に、病勢急変し、午前10時15分遂にこの世を去ったのである。」

石崎睦子(いしざき むつこ)さん(当時12歳)は、建物疎開作業現場で被爆し、行方不明になりました。父親の秀一さん(当時42歳)が来る日も来る日も各地を捜し回りましたが、睦子さんの行方は分かりませんでした。

石崎睦子さん(1年4組)の日記

「8月5日 日曜日 晴

起床 午前五時〇〇分 就床 午後九時〇〇分

学習時間 二時三十分 手伝 ふき上げ

(略)午後 小西(こにし)さんと泳ぎに行った。私はちっともよう泳がないのに、皆んなよく浮くなと思ふとなさけなかった。今日は大へんよい日でした。これからも一日一善と言ふことをまもらうと思う」

母親の安代さん(やすよ 当時37歳)は、睦子さんの残したこの日記を時々読み返しつつ、亡くなるまで大切にしていました。

最後の日記 寄贈/植田規子氏 所蔵/広島平和記念資料館
最後の日記 寄贈/植田規子氏 所蔵/広島平和記念資料館
焼け跡で見つけられた制服 寄贈/石崎秀一氏 所蔵/広島平和記念資料館

焼け跡で見つけられた制服

父親の秀一さんの着物の生地で作った制服。睦子さん(当時12歳)が被爆当日着ていましたが、作業前に畳んで物陰に置いていたために焼失を免れたらしく、8月20日ごろ、秀一さんが土橋の作業現場で山のように積まれていた瓦の下から見つけました。けがを負って睦子さんを捜しに行けなかった母親の安代さん(当時37歳)は、娘の帰りを信じて待っていましたが、夫の持ち帰ったこの制服を見て、もうこれは生きてはいまいと泣き伏しました。

寄贈/石崎秀一氏

梅北トミ子さん(1年4組)の日記

「8月5日 日曜日 晴

起床 午前六時二分 

学習時間四時三分 手伝 お守り、掃除、はきとり、風呂たき洗濯、食事片付

(略)今日美智子(みちこ)を私が風呂に入れたので、喜んでゐた。お母さんだと水をとばせばしかられて、私だと一しょにゆをとばすので、おもちゃを浮かせたりしてよく入った。夕飯は、うどんだった。私が、おしるに、味をつけて、こしらへたので、お父さんも、お母さんも、おいしいゝと言はれた。

反省 一生けんめいすると、何でも面白いと思った」

 トミ子さんの死後、両親ともあまりトミ子さんの話をすることはありませんでしたが、母親のアキヱさん(当時34歳)は、自宅に残された遺品の日記と絵を引き出しの底に収め、ずっと大切にしていました。

最後の日記 寄贈/梅北美智子氏 所蔵/広島平和記念資料館
最後の日記 寄贈/梅北美智子氏 所蔵/広島平和記念資料館
自宅に残されていた形見の絵 寄贈/梅北美智子氏 所蔵/広島平和記念資料館

自宅に残されていた形見の絵

トミ子さん(当時13歳)が描いたイラストです。

寄贈/梅北美智子氏

(母親の手記より・要約)

「8月6日の朝、時間はよく覚えておりませんが、6時半から7時ごろと記憶しております。いつものように制服を着、非常袋と山鍬を持って出かけました。

…原爆が落ちた後、主人はトミ子をその日一日中、7日も朝からあちこち探しましたが見つかりませんでした。ようやく8日の朝、第一県女の連絡板に書いてあるのを見て、己斐の方へ逃げたことがわかりかけつけましたが、すでにその日の朝、まだ暗いうちに息を引き取ったあとだったそうです。先輩の浴衣を着せていただいていたそうです。」

「日記々載上の注意」 所蔵/広島平和記念資料館

「日記々載上の注意」

日記帳の冒頭に記載されている注意書きには、「今日の一日」を尊び、顧みて、一日一日向上していくため、自分を反省し戒め、また楽しみながら生活の記録をするよう書かれています。生徒たちは個性豊かに日々の生活をつづっていきました。

 

(内容一部)

『今日の一日』それは私共の再び経験する事の出来ない尊い一日であります。一日の生命は一日の向上でなくてはなりません。此の貴重な一日が、日めくりの紙の様に、棄て去られて顧みられない事は惜しい事であります。其の日其の日の生活を省察して記録するといふ事は、ありし日の面影を永久に保存するというばかりでなくよりよき生活への修養であり、又文章上達の捷径であります。かういふ意味に於て私共は、自ら省み、自ら励み、自ら戒め、そして又自ら楽しみつゝ生活の記録をいたしませう。

(「県立広島第一高等女学校日記帳」冒頭文より)

建物疎開作業  濱田義雄氏 所蔵/広島平和記念資料館
建物疎開作業中、全滅した中学生たち  岡崎秀彦氏 所蔵/広島平和記念資料館
提供: ストーリー

contributor — Takatoshi Kumamoto, Noriko Ueda, Shuichi Ishizaki, Michiko Umekita
creator — Yoshio Hamada, Hidehiko Okazaki

提供: 全展示アイテム
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