科学と技術の歩み

国立科学博物館

-私たちは考え、手を使い、創ってきた-

江戸時代の鉱業
マルコ・ポーロが「黄金の国(ジパング)」と呼んだ日本は、金銀などの鉱物資源や燃料となる森林資源に恵まれ、江戸時代以前から世界有数の鉱業国だった。江戸時代に入ると、幕府は積極的に鉱業を振興し、日本各地で鉱山開発を行った。銅の生産量は世界最大となり、これらの生産物は長崎を通じて世界に流通した。
算術の普及と発展
江戸時代には長く平和が続き、庶民も寺子屋などで「読み、書き、そろばん」を学ぶことのできる社会が生まれた。和算も学問や商業などの実用の技として、学者や一部の武士だけでなく、庶民にまで広がった。学問の分野では流派が生まれ、知識の競い合いの中で西洋の数学に匹敵する高等な学問体系が作られた。
天文と測量
測量とは、天を測り地を量ることを意味する中国の「測天量地」に由来する。江戸時代になると、測量技術は従来のものに西洋から伝えられた暦学や測量の知識に加えて実用の技術として発達した。江戸時代に盛んに行われた土木治水や鉱山開発は、広く普及した測量技術があってこそ可能だったのである。
本草学から博物学へ
日本は有用な鉱物、植物、動物の知識を長らく中国から学んできた。江戸時代になると国内資源の調査が進み、さまざまな植物が栽培されるようになり、、品種改良もさかんに行われるようになった。その結果多くの農書や本草書などが出版され、西洋の知識も取り入れられ、その比較の中で本草学から近代的な博物館学へと展開していった。
江戸時代の医学
江戸時代中期以降、西洋の医学である蘭学が盛んになった。伝統的な漢方医たちの中にも、進んで蘭学者の協力を得て人体解剖を行うなど、実証的な西洋医学を取り入れようとするものが現れた。こうして、伝統医学と西洋医学とが巧みに融け合い日本独自の医学を作り上げた。
匠たちの技
江戸時代の日本では合理性や実利性が尊ばれ、社会の役に立つ学問に重きが置かれた。一方で人々は遊びや珍しいものも好み、その結果「わび」、「さび」のような概念や「いき」「いなせ」といった独自の美意識も生まれた。ここに日本独自の「モノ作り」文化がはぐくまれ、さまざまな分野の職人たちが、美術工芸品から生活用品、遊び道具に至るまで優れた技を発揮した。
基準と制度の統一
殖産興業を掲げた明治政府の最重要課題は、世界の進んだ知識や技術を導入し、海外との貿易を行うことだった。そのためには、欧米諸国に合わせて諸制度を整え、さまざまな共通基準を作らなければならなかった。貨幣や計量や暦や時法などの基準や制度は最も基本的なことで、最優先で整備する必要があった。
近代化に向けた人材育成
明治政府は、国づくりを担う人材教育のために、いわゆる“お雇い外国人”を欧米から招聘し、世界でも初めて本格的な工学系の大学を設立した。そこでは理論ばかりでなく、実践も重視した教育が行われ、巣立った学生の多くは、大規模な土木工事や発電所建設を指導するなど、国づくりに励んだ。
近代科学技術の普及
1872(明治5)年、明治政府は新しく学制を発布し教育制度を整えた。理科教育や工業教育を推進し、さまざまな教材や機器を徐々に整備していった。また、各地で開かれた博覧会では、欧米の科学技術が紹介され、人々の意識を高めた。
工作機械の導入
江戸時代、鉄砲などの一部を除けば生産技術の中心は木材加工であったが、幕末になると、欧米諸国から鉄を材料とする蒸気船や大砲などが伝えられた。明治維新後、官営工場を中心に多くの機械が輸入され、鉄を主体とする近代工業への取り組みが進められた。
電力システムの導入
1887(明治20)年、東京の南茅場町に火力発電所が造られ、周辺の街に電灯がともった。エジソンがニューヨークに電灯をともしてからわずか5年後のことである。明治末期になると、高圧で電気を送る技術の発展により、山間部の水力発電所から東京や大阪などの都市に電気を大規模に送ることができるようになった。その結果、夜間の労働時間や生活時間が大幅に増え、人々の生活が変わった。
日本人の発明と創造
日本は欧米の新しい科学技術の九州に努め、やがていくつかの分野で欧米に匹敵する成果が現れた。1924(大正13)年に発明されたG型自動織機は、世界的な織機メーカーに最高性能と認められ、国内外で使用された。この事実は日本人に自身を与え、発明や研究開発の展開に大きな影響を与えた。
自動車産業のあけぼの
自動車は、1899(明治32)年に初めて輸入され、その実用性が期待された。しかし、水運と鉄道を中心とした日本の運送体系の中では、道路の整備がはかどらず、バスやタクシーなど公共輸送への利用も進まなかった。大正末期になると、道路状況など日本の事情に合わせた自動車を開発しようとする人々が現れ、しだいに自動車普及への道が開かれていった。
航空技術の発展
日本で初めて飛行機が飛んだのは1910(明治43)年のことである。昭和に入ると、東京帝国大学航空研究所や民間企業で、理論面でも技術面でも研究が進み、航研機や零戦など世界最高水準の性能を持つ飛行機が開発された。戦後は、その知識や技術を持った優秀な人材が、鉄道、自動車、教育などさまざまな分野に転出し、活躍した。
画像を送る新技術
19世紀末から欧米では画像を伝送する研究が盛んになった。当初は機械的な方法が試みられたが、実用化の決め手となったのは、光電管やブラウン管などの電子管の発明である。この新しい技術に対する研究意欲は日本でも高く、昭和の時代になると高柳式テレビジョンやNE式写真電送装置など、欧米と肩を並べる研究成果が現れた。
機械式計算機
19世紀の欧米では、歯車を利用して計算するさまざまな機械式計算機が登場した。その理論では、現代のコンピューターの中にも生きている。20世紀に入ると、日本でも国産の手回し計算機や計算尺が普及し、科学・技術の研究開発に多用された。橋も電車も電気製品も、これらの道具を使って設計された。
電子計算機
大量の情報を処理する必要から生まれたコンピューター。日本では昭和30年代から、生産管理、証券取引、鉄道の座席予約などの分野での導入が進み、高度成長を支えた。当時のコンピューターは、特別な部屋に納められた大がかりな装置で、個人で使うなど想像もつかなかった。
日本の宇宙開発
1955(昭和30)年、ペンシルロケットから始まった日本の宇宙開発は、1970(昭和45)年には旧ソ連、アメリカ、フランスに次ぎ、世界で4番めの人工衛星打ち上げに成功するまでになった。また、1969(昭和44)年には実用衛星の打ち上げを目指して大型ロケットの開発が始まり、1990年代には純国産大型ロケットにより静止軌道へ気象衛星などを独自に打ち上げられるようになった。
提供: ストーリー

地球館2階:科学と技術の歩み-私たちは考え、手を使い、創ってきた-
より作成

写真:中島佑輔

提供: 全展示アイテム
ストーリーによっては独立した第三者が作成した場合があり、必ずしも下記のコンテンツ提供機関の見解を表すものではありません。
Google で翻訳
ホーム
トピック
現在地周辺
プロフィール