京都府宇治市、慶長年間(1596~1615)に開窯したと伝えられる陶磁器窯

宇治川のほとり
朝日焼は京都の南、宇治川のほとりにあります。宇治の鎮守であり世界遺産の宇治上神社のそば、川の対岸に望むのは平等院鳳凰堂です。
初代陶作作《燔師茶碗》
初代陶作によって宇治の朝日山の麓に陶器の窯が築かれたのは慶長年間(1596~1615)であるとされています。山の名をとり朝日焼と名付けられたこの窯は、茶碗や水指など茶の湯の道具を生産し、全国の大名・公家・茶人に愛用されました。そして、茶人としても知られる大名小堀遠州(1579~1647)が指導し、遠州筆の「朝日」の二字を使うことを許されました。このため朝日焼は、遠州が好んだ「遠州七窯」のひとつに数えられ、その名を知られるようになったのです。
四代から七代の頃には困難な時代であったようで、農業と製茶業を生業とし、その他にも、瓦の製造や、宇治川の渡し船をしていたという記録も残っています。
十二世松林昇斎
松林家に転機が訪れたのが八世松林長兵衛(?~1852)のときのこと。しばらく途絶えていた窯を再興し、当時流行していた煎茶で使う煎茶道具の生産を始めました。その孫、十二世松林昇斎(1865~1932)はかつての朝日焼の抹茶碗の復興を目指し、それを成功させたといいます。
十二世松林昇斎作《燔師茶碗》
1898年(明治31)、皇太子は(後の大正天皇)宇治行啓のさいに朝日焼で昇斎の制作工程を見学、作品を購入したことがありました。これ以後、皇族をはじめとする要人の宇治訪問では朝日焼に立ち寄ることが恒例となり、皇室との関係は今日までつづいています。
リーチ工房の日本式登り窯
大正期には十三世松林光斎(1891~1947)の弟、松林靏之助(1894~1932)が英国に留学をしています。英国では後に民藝陶器で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される濱田庄司(1894~1978)や、20世紀の英国を代表する陶芸家バーナード・リーチ(1887~1979)と交流しました。
リーチ工房の登窯建造
1923年から24年(大正12~13)にかけて、リーチから依頼され、リーチ工房に今も残る日本式の登り窯を建造し、リーチの弟子への指導を行ったといいます。
玄窯
戦時中は商工省が工芸技術の保存を目的に陶磁器の制作を認めた「丸技」の資格者に認定されたものの、その運営は困難を極めました。苦難の時代を乗り越えて、1975年、十四世松林豊斎が世界初の無煙式登り窯を築窯しました。こうして当代の十五世松林豊斎(1950~)まで、窯の火を絶やさずに作陶を続けています。
受け継がれる陶土
原料となる陶土は宇治の南の丘陵地帯で採掘しています。何世代も前に採掘し貯蔵してきた粘土を混ぜて使うことにより、新しい土では出すことのできない味を表現することができます。つまり、今採掘する粘土は、朝日焼を将来に引き継ぐ世代のために準備しているのです。
十五世松林豊斎
現在、朝日焼は陶器と磁器の両方を制作しています。陶器は薄赤い斑点の特徴的な一般に「御本手」と呼ばれるものが中心です。これは、土の中に含まれた鉄分が窯の中で化学反応を起こして自然とあらわれる模様です。その色と模様の出方によって、朝日焼では「燔師」と「鹿背」の2種類に分けられます。一方、磁器は煎茶碗や宝瓶を主に制作しています。これも陶器の作品と同じく窯の中の化学反応を駆使して赤・緑・黄など鮮やかな色を表現します。
新たな地平
近年では、十五世豊斎の長男松林佑典(1980~)は伝統工芸と現代クリエーターとのコラボレーションユニットGO ONに参加。デンマーク人デザイナーによってデザインされた作品などを発表。また復興されたリーチ・ポタリーに滞在しての作品制作、パリのギメ東洋美術館での作品を用いた茶会と展示など、その活動は多岐にわたっています。
立命館大学アート・リサーチセンター 協力:京都女子大学
提供: ストーリー

資料提供: 朝日焼

映像: A-PROJECTS 高山謙吾

監修&テキスト: 前﨑信也 (京都女子大学 准教授

編集: 京都女子大学生活デザイン研究所 坂下理穂 (京都女子大学大学院家政学研究科)

英語サイト翻訳:Eddy Y. L. Chang

英語サイト監修: Melissa M. Rinne (京都国立博物館

プロジェクト・ディレクター: 前﨑信也 (京都女子大学 准教授

提供: 全展示アイテム
ストーリーによっては独立した第三者が作成した場合があり、必ずしも下記のコンテンツ提供機関の見解を表すものではありません。
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