歪みから見いだされる破調の美

伊賀焼は中世の時代に三重県伊賀市の槙山に近い五位ノ木窯跡などで始まりました。周辺の豊富な陶土と赤松の燃料を利用し信楽焼と同じ甕、壺、擂鉢などが焼かれたのです。
茶陶としての伊賀焼
茶の湯が盛んとなった17世紀初めの桃山時代。伊賀国領主であった筒井定次(1562~1615)や藤堂高虎(1556~1630)、高次(1602~1676)の時代に武将茶人の古田織部(1543~1615)などの指導で力強く破格な美意識を持った茶陶の水指や花入が焼かれました。
古伊賀陶片
この時代の伊賀焼は、一般に古伊賀と言われます。壁面にはヘラ目の文様や、格子状の押し型文様がみられます。そして、ゆがみ、緑色のビードロ、灰かぶりや焦げ、鉄釉を垂らすといった数々の意匠が見られ作為性の強い作品となっています。
作家の川端康成はノーベル賞受賞の記念講演「美しい日本の私」のなかでわび、さびといった日本文化を代表する焼き物として古伊賀を絶賛しました。現在までに、この時代の伊賀焼の花入や水指6点は国の重要文化財の指定を受け、美術館や博物館に収蔵されている作品も数多くあります。
再興伊賀
桃山時代が終焉をむかえると伊賀焼も焼かれなくなります。その後、江戸時代の18世紀中頃に藤堂藩の支援もあって、日常雑器の碗や皿、鍋、など日常雑器を中心に丸柱で再び焼かれ始め、弥助、久兵衛、定八といった陶工が活躍し現在の伊賀焼の基礎ができました。
豊富な天然資源
遥か400万年前、この地域には古琵琶湖がありました。湖底に堆積してできた伊賀焼の陶土、燃料となる赤松の森が、土と炎の芸術である伊賀焼を育んできました。
長谷園の連房式登り窯
天保3年(1832)の創業時から昭和40年代初めころまで使用されていたとされる16の燃焼室を備えた登り窯。
ヘラ目・格子状の押し型・耳・ゆがみ
伊賀焼の水指や花入には、ヘラ工具を使用した「山道手」(やまみちて)と呼ばれる波状の文様や格子状の押し型文様で装飾がされます。多くの場合両脇に一対の「耳」が付けられます。整った形に手を加え歪ませた破調の美が特徴であり、それぞれが個性的な作品となっています。
ビードロ・灰かぶり・焦げ・山割れ
伊賀焼の器肌は高温で長時間焼かれることによって、降りかかった灰が緑色のガラス質となります。灰かぶりや黒い焦げ、山割れ等を生じます。いずれも自然の窯変の結果に見えますが、実は、最初からそうなることを想定して焼かれているのです。
焼き締めの肌合い
赤く燃え盛る色を映した火色の小石まじりの肌合い。水気を帯びた伊賀焼の器に料理を盛り、酒を注げば緑色のビ-ドロが映え、味までも引き立てます。
他産地とのつながり
「伊賀に耳あり、信楽に耳なし」とはよく言ったもので、二つの産地の製品見分けるには、「耳」つまり、把手があるかないかくらいの違いしかないということです。地域的にも隣り合っている信楽焼と伊賀焼は、中世から密接な関係を持ってきました。一方、近代の伊賀焼には信楽だけではなく、このように京焼とのつながりを感じさせる作品も少なくありません。
赤レンガの煙突
昭和30頃に建造された重油窯の赤レンガの煙突。往時には同様の煙突が数多く存在し、盛んに黒い煙を出していたといいます。
伊賀焼の土鍋で団らんのひと時を
近年では土鍋や食器を中心に茶陶も焼かれ、古伊賀に劣らない新しい伊賀焼を目指し作陶に励む陶芸家の姿も見られます。伊賀焼の土は耐火度が高いので、土鍋に向いています。おいしい鍋を囲んで一家団らんをお楽しみください。
伊賀焼伝統産業会館
1階では現代の伊賀焼の展示、2階では伊賀焼の歴史資料の展示を行っています。陶芸教室も開催しています。
立命館大学アート・リサーチセンター 協力:京都女子大学
提供: ストーリー

資料提供&協力: 伊賀焼振興協同組合東京国立博物館

監修&テキスト: 藤井尚登 (伊賀焼伝統産業会館・伊賀焼振興協同組合)

写真: A-PROJECTS 高山謙吾

編集: 前﨑信也(京都女子大学家政学部生活造形学科准教授

英語サイト翻訳: 黒崎 美曜・ベーテ

英語サイト監修: Melissa M. Rinne (京都国立博物館

プロジェクト・ディレクター: 前﨑信也 (京都女子大学 准教授

提供: 全展示アイテム
ストーリーによっては独立した第三者が作成した場合があり、必ずしも下記のコンテンツ提供機関の見解を表すものではありません。
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