奈良盆地の西側、江戸時代から続く陶器窯

赤膚焼の歴史
赤膚山元窯は、奈良市赤膚町、奈良盆地の西側の山麓にあります。赤膚山とも五条山とも呼ばれる裏山から眺めると、はるか遠くに東大寺大仏殿、近くに薬師寺を眺めることができます。赤膚焼の始まりは諸説がありますが、遅くとも江戸時代の終わりころ、京焼とつながりの深い焼き物として生産をしていたことは確実です。当時、この土地を治めていた大和郡山藩の庇護を受けて、3つの窯が発展しました。明治時代以降、その中で最も古い「中の窯」だけが残されました。それが現在の赤膚山元窯(古瀬尭三窯)です。
赤膚山元窯には、昭和8年に描かれた工房全体の絵図が残されており、現存する大型登り窯と店舗が描かれています。
赤膚山元窯の土と釉薬
赤膚山元窯では裏山や周囲から採掘した粘土を精製して使用しています。近くには古墳時代の埴輪の窯などが発掘調査されており、古墳時代から良質の粘土がとれる場所として活用されていたようです。
この土地で入手できない長石などの一部の材料は他地域から買い入れていますが、粘土や灰などの基本的な材料はすべて工房で精製して使用しています。
原料をその土地で調達している窯元は、いまでは極端に減っています。伝統的なもの作りを伝えている大変貴重な窯元です。
赤膚山元窯の遺産
赤膚山元窯には、3つの登り窯が残されています。江戸時代終わり頃に作られたと伝えられてきた大型窯、昭和20年代に築造された中型窯、昭和40年代に築造された小型窯です。登り窯が3つ並んでいる姿は日本国内では他に見ることができません。電気窯やガス窯などが普及したことから、1970年代以降、全国の登り窯の数は急速に減少しています。赤膚山に残された窯は貴重な文化遺産とも言えるのです。
大型登り窯は全長約17.5m、幅約5.4m、天井高約2m、8つの部屋をもつ連房式登り窯です。修復を繰り返し、何度も直し続けた痕跡が、レンガの積み方や融けた壁の様子から分かります。
かつての工房を店舗として活用しています。2階が倉庫であったため、1階部分には沢山の柱が残されています。この建物は一見すると和風建築ですが、明治時代から大正時代に建設されたものです。 
2階は天井部分にトラス構造をもった珍しい近代建築で、大型登り窯と共に国の登録文化財に指定されています。
店舗で使っているテーブルは古い手回しロクロを転用したものです。使い古され、本来の使命を終えたロクロは、赤膚焼を引き立ててくれます。
茶陶や会席の器を中心にしながら、大型の作品制作も行っています。時代に合わせた多様な作品と、伝統的な作品が交錯していることも、赤膚山元窯の魅力のひとつです。  
江戸時代の終わり頃から明治時代の初めにかけて、赤膚焼中興の祖と言われる奥田木白がこの窯で活躍しました。彼が作った土型をはじめ、幕末以降の多くの道具類が残されていますが、これらのデザインは現代の作品にも受け継がれているのです。
時代に合わせた新しい型を加えながら、江戸時代から受け継がれた型を再生して使用し続けています。
登り窯の伝統を活かす試み
大型登り窯は、使用を停止してから40年以上経過しており痛みが相当進行していました。この大型登り窯を修復し、地域の歴史資源として末永く活用するため、2015年8月30日から大型登り窯の胴木間から2の間までを解体・修復を行いました。   解体に合わせて2015年9月に発掘調査を行い、歴史的な変遷を検討。近代に大きく改造しながら、何度も改修工事が加えられた痕跡を確認することができました。
登り窯は昭和50年代以降、しばらく使用を停止していましたが、2016年以降、伝統を復活させ改めて火を入れる準備を進めています。解体修理・発掘調査は、登り窯築造・修復の技術と人材を、未来にむけて残す仕事です。このまま修理せずに放置すれば、登り窯を維持する技術が急速に廃れてゆきます。この問題は赤膚山元窯だけの問題ではなく、日本各地の登り窯の課題です。赤膚山元窯の試みは、文化遺産を活用する挑戦なのです。
赤膚焼元窯
立命館大学アート・リサーチセンター 協力:京都女子大学
提供: ストーリー

資料提供:赤膚焼元窯

監修&テキスト:木立雅朗 (立命館大学文学部教授)

写真: 桑島薫、木立雅朗

編集:京都女子大学生活デザイン研究所 田岡佑梨 (京都女子大学家政学部生活造形学科)

英語サイト翻訳: Hillary Pedersen

英語サイト監修: Melissa M. Rinne (京都国立博物館

プロジェクト・ディレクター: 前﨑信也 (京都女子大学 准教授

提供: 全展示アイテム
ストーリーによっては独立した第三者が作成した場合があり、必ずしも下記のコンテンツ提供機関の見解を表すものではありません。
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