江戸時代からの伝統が現代にまで受け継がれる漆のわざ

御用蒔絵師たち
徳川家康が江戸に幕府を開いたことで、全国から蒔絵師が集まりました。その中から優れた者が召しかかえられ、江戸城内に設けられた御細工所で城内の建造物や調度類の制作に携わったのです。 更に徳川家を中心に大名家が蒔絵を注文しました。権力を象徴するかのような豪奢なものが多く、代表的なものとして国宝『初音の調度』(徳川美術館蔵)があります。これは寛永16年(1639)、三代将軍家光の娘千代姫の婚礼のために用意された調度品です。
三代将軍家光の時に御用蒔絵師となった人物に古満休意(?~1681)や御用印籠師・御差御鞘塗師となった山田派のように、江戸では多くの蒔絵師が活躍しました。文化・文政年間(1804~1830)、十一代将軍家斉の時代、将軍家やその血筋を引く姫君の調度や嫁入り道具に蒔絵が盛んに用いられ、江戸蒔絵はかつてないほどに隆盛を極めました。
江戸蒔絵師の系譜-江戸中期~後期
明和5年(1768)に生まれた原羊遊斎は、琳派の絵師として知られる酒井抱一の下絵を用いた蒔絵作品で知られる名工です。
幕末から明治へ
明治維新の後、徳川幕府や大名家の庇護を受けていた多くの御用絵師たちは転業や廃業の道に追い込まれます。しかし、明治政府の殖産興業政策の下、海外で人気の高い漆器も奨励されるようになります。明治22(1887)年には、東京美術学校(現在の東京芸術大学)で漆工が教えられるようになり、初代教授となった人物が小川松民(1847~91)です。
川之辺一朝(1830~1910)は、天保元年(1830)東京に生まれ、江戸時代より続く伝統的な蒔絵技法を学びました。
柴田是真(1807~1891)も、幼少期から蒔絵と絵画を学び、蒔絵と漆絵に独自の技法を駆使した作品を制作しました。明治23(1890)年、帝室技芸員に任ぜられ、多くの弟子を育てました。
池田泰真(1825~1903)は11歳で柴田是真に弟子入りました。是真のもとで蒔絵と絵画を学んで、25年間修業した後に独立。是真同様、門人の育成にも力を注ぎ、明治29(1896)年に帝室技芸員になりました。
大正・昭和の蒔絵師たち
大正時代以降の日本の漆芸界の中心の1人に赤塚自得(1871~1936)がいます。国内外の博覧会に出品し活躍、美術界の要職を歴任しました。伝統的でありながら近代的な作品で知られます。
現代に続く江戸蒔絵 -三田村自芳・秀芳・有純から未来へ-
赤塚自得の一番弟子に三田村自芳 (1886~1979)がいます。そして、柴田是真の流れをくむ高井泰令は三田村有純(1949~)の大叔父です。明治の蒔絵師たちの技術は三田村自芳、秀芳(1914~1982)、有純へとつながっているといっていいでしょう。 三田村自芳は赤塚自得から赤塚派の流儀を受け継ぎ、日本画を基にして抑揚のある作品を多く仕上げています。
秀芳は父自芳に学びながらも油絵で学んだことを生かし独自の世界を作り出しました。有純は祖父や父の教えを受け継いだ江戸蒔絵赤塚派十代目として、東京藝術大学教授として、あるいは日展会員として後進の指導に当たっています。
江戸蒔絵、京蒔絵、加賀蒔絵などこれまではその地方で生まれ発達した蒔絵様式をそれぞれの土地の名前を冠して様式別に分類していました。しかし、もはやそれらは蒔絵師が住む土地そのものを表すものではなくなりつつあります。江戸蒔絵師十代目の三田村有純は、2013年に埼玉県比企郡小川町に新しい工房を構えました。
三田村家に伝わる筆や金を蒔くために使う粉筒は年代を経て今や有純自身の身体のように自由に動きます。それはまるで筆と腕が一体化したかのよう。 粉筒はかつて白鳥の羽が使われていたといいます。しかし、そういった伝統的な道具ももはや手に入らなくなっています。今や日本の工芸は、職人の高齢化や材料の枯渇によって、素材だけではなく使う道具を手に入れることが難しくなっているのです。三田村家に伝わる道具も、歴代の作品と同様に、日本の漆文化の遺産なのです。
立命館大学アート・リサーチセンター 協力:京都女子大学
提供: ストーリー

資料提供&協力:三田村有純東京国立博物館

監修&テキスト:井谷善恵 (東京芸術大学)

編集:京都女子大学生活デザイン研究所 渡辺雅子 (京都女子大学家政学部生活造形学科)

英語サイト翻訳: 井谷善恵 &川久保翻訳事務所

英語サイト監修: Melissa M. Rinne (京都国立博物館

プロジェクト・ディレクター: 前﨑信也 (京都女子大学 准教授

提供: 全展示アイテム
ストーリーによっては独立した第三者が作成した場合があり、必ずしも下記のコンテンツ提供機関の見解を表すものではありません。
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