着物と染織

京都国立博物館

日本人の装い、その種類と歴史は、ひとくちで説明しきれるものではありません。僧侶の袈裟や公家の装束、桃山時代の華美さや江戸時代の「粋(いき)」など、階級と時代によってその本質はめまぐるしく変化します。

しかしいずれの作品にも、一糸一糸に職人の技と人々の祈りや楽しみが込められていることは間違いありません。京都国立博物館所蔵品の中にも、あなたの目を喜ばせるようなデザインの染織品が必ずあるはずです。

小葵文様袍(阿須賀神社伝来古神宝のうち)(1390年)

日本古来の宗教である神道では、祭神の住まいや持ちものを一新することによって、神が新たな生命力を盛り返すとの思想があり、遷宮および神宝の新調が周期的に行われる。熊野三山のひとつ熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)の旧摂社である阿須賀神社でも、熊野速玉大社と同様に、かつては33年に一度、神宝を新調して奉納する習いがあったと考えられる。

現在当館が所蔵する阿須賀神社の古神宝は、明徳元年(1390)、熊野速玉大社の古神宝(同社蔵)とともに、足利義満(1358~1408)の沙汰のもと、時の権力者たちによって調進されたと伝えられており、手箱などの調度類や装束から成っている。後世に増進された品が混在すると思われるものの、製作の時期や状況を明らかにできる稀有な資料群の一部であり、中世工芸史上きわめて重要な位置を占める。

阿須賀神社の神宝は、男神の一具である。ここに挙げた袍(ほう)は、公家男性の装束の直衣(のうし)に該当するが、人間の寸法よりも一回り大きく仕立てられている。中世の公家装束は現存しないが、神宝を通してその実相の一端をうかがい知ることができる。

桐矢襖文様胴服(16世紀)

胴服は現在の羽織の原形で、戦国時代の大名に愛好された上着である。これは肩に紫の壺垂れ文様、裾に萌葱の矢襖文様を配して上下を区切り、一種の肩裾文様の構成としながら、肩裾文様では文様を入れずに白地のままにしておく腰の部分に、光沢のある生地の美しさをいかしつつ、萌葱・紫・浅葱に染め分けた桐文様を散らした、洒落な意匠の1領である。

天正18年(1590)、豊臣秀吉が北条氏を攻めた小田原合戦に際し、陣中見舞を届けた南部信直に秀吉が与えた胴服と伝えられ、南部家に伝来した。

文様はすべて絞り染のみで表現され、描絵や刺繡などの技法を一切併用しない。細かな縫い締め絞りによって防染したうえで、色数に応じて染液への浸け染めを繰り返すこの種の絞り染では、明確な輪郭をもつ文様を染め上げるために、多くの手間と高度な技術が必要である。近代の研究者によって、この種の技法は辻が花染と定義されたが、中世の文献に記される辻が花染は、絹ではなく主に麻地に染めるものであり、絞り染であったかも定かではないことが指摘されている。

草花文様四つ替小袖(16世紀)

金箔と銀箔を不規則に組み合わせた金銀地を背景に、初春の梅、暮春の藤、秋の楓、冬の雪持ち笹と、四つに大きく分割した背面の区画それぞれに、季節を象徴する草花を繡いあらわした小袖である。室町時代の文献では、「八つ替」など、背面を分割した区画数で小袖の意匠を記述しており、それに従えば、これは四つ替の小袖となる。現代のきものを見慣れた目には、身幅に比して袖幅が著しく狭く思われるが、これは桃山時代までの小袖の仕立てに見られる典型的な特徴である。

大胆に意匠化された草花は動きに満ち、大らかな生命力にあふれている。それらを表現するのが、輪郭線を平行に糸渡り長く繡いとる「渡し繡(ぬい)」という刺繡技法である。1枚の花びらや葉の中で唐突に色を変化させる色替わりは、この渡し繡によって生み出されている。

衣服とは身体を包み守るものであり、それゆえ、その文様には吉祥の意味がこめられてきた。1領のうちに1年の景物を揃えたこの小袖には、同時代に数多く描かれた四季花鳥図と同じように、四季の生命力が横溢する理想郷が表現されているのだろう。

松皮菱段小文様小袖(17世紀)

黒・紅・黒・白と絞り染で横段替わりに生地を染め分け、いずれの区画にも刺繡と摺箔による小さな文様を隙間なく詰めた小袖。直線ではなくぎざぎざに区切られた横段は、菱形の稜線を稲妻状に屈曲させた松皮菱の輪郭をかたどったものである。細部に注目すると、黒地に金一色で浮かび上がる霞の中の枝垂桜、色替わりの刺繡による入子菱と、細緻な手仕事に驚かされる。

黒・紅・白の三色を染め分けた綸子(りんず)地である点、刺繡と摺箔(すりはく)による小文様で構成される点など、いずれも「慶長小袖」と通称される江戸時代初期に流行した小袖の特徴を備えるが、身幅が広く袖幅が狭い古風な仕立てである点、染め分けが不定形であることが最大の特色である慶長小袖群の中にあって横段という幾何学な構成を守る点などから、慶長小袖の揺籃期とされる慶長年間(1596~1615)に製作されたと考えられる。

江戸時代初期の風俗を記す文献には、武家女性の晴着として、全体を摺箔で埋め尽くした「地なし」と称される小袖を用いたことが記されており、本作品も「地なし」の一種とみて良いだろう。備前池田家の伝来品である。

菊に棕櫚文様帷子(17世紀)

濃茶の地色を背景に、右袖から枝を伸ばし、両肩を覆うように天に向かって大きく開く花と、腰から裾へと、やや控えめに開く花。ふたつの花は、背面に大きく平仮名の「て」を描くかのように配されている。この大胆な意匠構成は、江戸時代寛文年間(1661~73)頃に流行した「寛文小袖」の特徴であり、この一領はその代表作とされている。

一見すると菊にしか見えない文様だが、実は中心に菊花を置き、その周囲を棕櫚の葉で囲んだ、菊と棕櫚の合成文様である。そのことは、寛文7年(1667)に刊行され、寛文小袖という名称を生み出す源となった小袖雛形本『御ひいなかた』に、この帷子と近似する意匠が「きくにしゆろ」という注記とともに掲載されていることから明らかにできる。

当世流行の小袖意匠を集めた雛形本は、現代のファッション雑誌のように女性の心を捉え、類似作が生み出されたことだろうが、現存する作品と雛形本の意匠図が一致する例は極めて少ない。

賀茂競馬文様小袖(18世紀)

5月5日に洛北の上賀茂神社でおこなわれる競馬神事をあらわした小袖。馬2頭で先着を競う競馬は、その年の作柄を占う神事であり、堀河天皇の寛治7年(1093)に始められたと伝える。端午の節供の競馬という主題から、少年が着用した小袖であろう。

上半身には紅の絞り染による角立(すみだち)石畳文様を、下半身には追いつ追われつしながら駆け抜けていく2騎を、友禅染を主体に、随所に刺繡を加えて表現する。友禅染とは、文様の輪郭線に沿って糊を置き、糊で区画された内部にさまざまな色を挿して、まるで絵画のように自在な文様を表現する技法で、17世紀の終わりに開発されると、その自由度の高さからきものを飾る主要技法となった。

糸目と呼ばれる白く染め残された輪郭線の美しさと豊麗な色彩が見どころで、この1領でも、友禅染による細密な描写によって、競い合う2頭の馬と2人の騎手の緊迫した空気が、臨場感豊かに伝わってくる。
享保9年(1724)に刊行された小袖雛形『当流模様雛形鶴の声』に類似する文様が見られることから、おおよその製作年代が推測される。

作土形草花文様金襴(鶏頭金襴)(前田家伝来名物裂のうち)(14世紀)

日本において、絹織物の先進地である中国からもたらされる染織品は、常に憧れの品であり、手本でもあった。古代に舶載された品は、法隆寺や正倉院の宝物の中にまとまった形で見ることができるが、中世・近世にもたらされた染織品は、袈裟などの宗教染織品や茶の湯で用いる名物裂(めいぶつぎれ)という形で伝えられ、各所に分蔵されている。

そのうち名物裂とは、茶の湯で用いる掛物の表装や茶入の仕覆(しふく)(袋)として用いられ、それ自体が鑑賞の対象とされた染織品をいう。京都国立博物館所蔵の名物裂は、江戸時代の大名である加賀前田家の旧蔵品で、3代藩主・前田利常(としつね)(1594~1658)が、家臣に命じて京坂や長崎で買い求めさせたことが蒐集の始まりと伝えられ、「二人静(ふたりしずか)金襴」「遠州緞子(どんす)」といった著名な名物裂をはじめ、さまざまな種類の染織品を含んでいる。

ここにあげた鶏頭金襴は、地面から生え出て花開く植物を鶏頭に見立て、この名があるという。綾組織(あやそしき)で金糸を地絡(じがら)みとする点、裏面で金糸の下になる緯糸(よこいと)を間引く点などに、金襴の中でも古様な製織技法を見ることができる。褪色が著しいが、裏面には鮮やかな赤紫色をとどめており、本来は蘇芳(すおう)染めであったと考えられている。

牡丹唐草羯磨文様袈裟(応夢衣)(14世紀)

袈裟とは、仏教を信奉する出家者が着用すべき衣服として定められているもので、小さな生地を縫いつないで1枚の大きな長方形の生地とする点に特色がある。高僧の着用した袈裟は宝物として尊ばれ、とりわけ禅宗においては、師の袈裟を相伝することが自らの法脈の正統性を顕示することでもあったため、「伝法衣(でんぽうえ)」として格別丁重に扱われた。

この袈裟は、南禅寺の住持であった龍湫周沢(りゅうしゅうしゅうたく)(1308~88)の塔所であった慈聖院の伝法衣で、「応夢衣」との通称で知られる。その名の由来は、無準師範(ぶじゅんしばん)(1178~1249)という中国の高僧から衣を得る夢を見た龍湫のもとに、翌日まさしく無準の袈裟を贈る人があったという伝説にちなむ。

しかしながら、袈裟全体に配された手描きの印金による特徴的な牡丹唐草文様は、高麗時代に製作された経典の表紙絵と極めて似通っており、本袈裟は無準師範が活躍した南宋時代ではなく、むしろ龍湫周沢が活躍した時代の、朝鮮半島での製作とする説が有力視されている。中国や朝鮮半島には、古代・中世の袈裟はほとんど存在しておらず、日本に伝えられた作品群は極めて重要な位置を占めている。

Kyoto National Museum
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