動物たちの世界

京都国立博物館

動物たちの世界
人間と共生してきたいろんな種類の動物たち。日本人にとっては、生活の助けであったり、神の使いとみなしたり、あるいは長寿などのおめでたい意味を象徴させたり……その関わり方の歴史には実に豊かなものがあります。動物を表した美術作品には、それぞれの時代における日本人から彼らへのまなざしが反映されています。

三角縁二神二獣鏡(3~4世紀)

愛知県犬山市東之宮古墳出土から出土した三角縁神獣鏡。三角縁神獣鏡は日本の古墳時代前期の古墳から出土する銅鏡の一種である。直径が20センチメートルを超える大型の鏡で、周縁の断面が三角形に尖っているのが特徴である。鏡面はやや凸面をなす。文様のある背面には中心に紐かけのつまみをもち、文様帯には半肉彫りの神像と獣像とを交互に配置するのが通常である。

この鏡は東之宮古墳から出土した銅鏡11面のうちの1面で、文様も精良であり三角縁神獣鏡を代表するものといえる。「天」「王」「日」「月」という漢字の銘文をもつ。中国鏡の伝統を受け継ぎながらも中国本土では出土しない型式であることもあいまって学界には三角縁神獣鏡の製作地に関する議論が存在する。日本古代史のなかで重要な遺物のひとつである。

唐三彩馬俑(8世紀)

緑・茶・白といった、多彩な釉薬で彩色された三彩陶器(唐三彩)の馬形の俑。唐時代の貴人たちにとって、名馬は単に乗り物であったばかりでなく、おのれの権勢・財力を誇示するための手段でもあった。そのため、貴人の行列が従えた牽(ひ)き馬は、実用性の観点からは不必要なほどに飾り立てられていたらしい。出土場所が明確ではないものの、鞍や杏葉(ぎょうよう)などで豪華に飾り立てられたこの馬の俑も、貴人の墳墓に副葬されていたものとみて間違いなかろう。

唐三彩馬俑(8世紀)

唐三彩の馬俑は非常に数多くの作例が知られているが、黒馬の俑の類品は河南省洛陽市(かなんしょうらくようし)の関林(かんりん)120号墓出土品など数例が知られるのみであり、非常に数少ない。一方、白い馬の俑は、かけられた釉薬の色を美しく見せるために、通常は赤味を帯びた地土の上にほぼ全面に施される白泥を、意図的に斑点状に塗ることによって、連銭葦毛(れんせんあしげ)という珍しい毛並みを表現したもの。
いずれも高い技術力に支えられた極めて技巧的な作品であり、躍動感(やくどうかん)には乏しいものの、皇太子の格式で埋葬された懿徳太子(いとくたいし)(李重潤、683~701)の墳墓出土品と較べても、ひけをとらない唐三彩馬俑の優品である。

若狭国鎮守神人絵系図(13世紀)


若狭国一宮の祭神である若狭彦大明神、二の宮の若狭姫大明神が遠敷郡西郷(おにゅうぐんさいごう)の霊河の源にある白岩の上に降臨し、これを社務笠氏の祖先である節文(たかふみ)が迎えて社殿を建立する創立譚と、笠氏歴代の肖像を描く、特異な構成の絵巻。
現状では詞書はなく、画中に適宜説明の墨書がある。絵も冒頭の若狭彦神降臨部分が失われているとみられるが、鎮座の適地を選ぶために、雲上の白馬に跨がり、節文を従えて天空を駆ける場面が遺っている。造営された一の宮には神前に御幣を手に畏まる節文と、節文を祀る黒童子社も添えられる。続く若狭姫神は白岩に垂迹(すいじゃく)する場面と、建立成った神殿前でやはり御幣をもつ節文を描く。

続く絵系図は礼盤(らいばん)に坐す神としての像と上畳に坐す衣冠像が向き合う形式で描かれている。第12代景継(1205~1299)までは鎌倉時代の制作であるが、その後は近世に描き継がれており、寛政12年に没した第31代正房で終わっている。

縁起部分と第12代までの絵は、鋭く美しい線描に清澄な淡彩を賦している。歴代の面貌を描き分ける筆力も優れており、細線を駆使した似絵の画風の継承を示す。

騎馬武者像(14世紀)

大鎧(おおよろい)を着て黒馬に跨がり、右手に抜き身の大太刀をもって肩に担ぎ、左手で手綱をとる武将を無背景に描いている。兜(かぶと)は被らず、髪を振り乱して、箙(えびら)の矢が折れた姿で乗馬している。前方を見据える大きな目は鋭く、武具は細部まで緻密に表現され、彩色も美しい。黒馬が腰を落として前足を挙げ、たてがみが目にかかる様は動勢に満ちている。制作途中に、左手に掛けられていた弓が消されたことが、修理中に判明している。

礼拝の対象となる肖像画は静止的に描かれるのが常であるが、本図は絵巻の合戦場面から抜け出してきたかのようであり、戦場で獅子奮迅する姿であろう。
像の頭上には室町幕府第2代将軍足利義詮(あしかがよしあきら)の花押が書かれているので、義詮の没年である貞治6年(1367)以前の制作と知れる。甲冑を着て騎馬姿で描かれる武家肖像画の最初期の遺例であるが、後に定型化する姿とは全く異なっており、この種の武家肖像画の成立の事情を暗示している。

松平定信の編纂による『集古十種』(寛政12年<1800>序文)に掲載された足利尊氏像と酷似することから足利尊氏像とされてきた。その後、腰に吊す太刀と馬具の鞖に輪違が描かれ、高家の家紋が輪違紋であること等から、像主が高師直(こうのもろなお)、あるいはその子師詮ではないかとする説が提示されているが、いずれも確定していない。

駿馬図(15~16世紀)
景徐周麟賛

室町幕府を開いた足利尊氏(1305~58)には戦の際に騎乗する愛馬がおり、その姿は尊氏の甲冑像の中に描き込まれていたらしい。その甲冑像の馬だけを新たに写し描いたのが、この「駿馬図」である。相国寺の景徐周麟(けいじょしゅうりん)(1440~1518)の賛によると、本図を制作させたのは時の将軍・義澄(1480~1511)であり、つねにこれを身近に置いて拝し、尊氏を偲んでいたという。

また、本図は相国寺常徳院内に所在した聯輝軒(れんきけん)の主に贈られたことも記されているが、この聯輝軒主は伏見宮貞常親王の子・就山永崇(しゅうざんえいすう)である。おそらくはその就山の要請によって着賛することになったのだろう。さらに、図の筆者については「画工」と記すのみで明らかにはできないが、将軍から画作を命じられたことからみても、当代一流の絵師であることは動かない。抑揚のない丁寧な筆線や緻密な毛描き表現からすると、漢画系よりはむしろ大和絵系の絵師を想定してみたいところである。

なお、景徐の賛文は彼の詩文集『翰林葫蘆集(かんりんころしゅう)』に収載されている。同集の編次はほぼ年代順になっているので、文亀元年(1501)から同3年(1503)の間の着賛とわかる。

賀茂競馬文様小袖(18世紀)

5月5日に洛北の上賀茂神社でおこなわれる競馬神事をあらわした小袖。馬2頭で先着を競う競馬は、その年の作柄を占う神事であり、堀河天皇の寛治7年(1093)に始められたと伝える。端午の節供の競馬という主題から、少年が着用した小袖であろう。

上半身には紅の絞り染による角立(すみだち)石畳文様を、下半身には追いつ追われつしながら駆け抜けていく2騎を、友禅染を主体に、随所に刺繡を加えて表現する。友禅染とは、文様の輪郭線に沿って糊を置き、糊で区画された内部にさまざまな色を挿して、まるで絵画のように自在な文様を表現する技法で、17世紀の終わりに開発されると、その自由度の高さからきものを飾る主要技法となった。糸目と呼ばれる白く染め残された輪郭線の美しさと豊麗な色彩が見どころで、この1領でも、友禅染による細密な描写によって、競い合う2頭の馬と2人の騎手の緊迫した空気が、臨場感豊かに伝わってくる。

享保9年(1724)に刊行された小袖雛形『当流模様雛形鶴の声』に類似する文様が見られることから、おおよその製作年代が推測される。

巌樹遊猿図屏風(16世紀)
式部輝忠筆

古くより式部輝忠(しきぶてるただ)(生没年不詳)は祥啓(しょうけい)や仲安真康(ちゅうあんしんこう)(ともに鎌倉建長寺の画僧)と同一人物とされてきたが、まったくの別人で、およそ16世紀半ば頃、同じ関東を中心に活躍していたことが明らかとなった。また、遺作の多くを膨大な数の扇面画が占めるところから、扇絵工房を主宰していたとする説も唱えられている。さらに、具体的な活動の場については、駿河の守護・今川家の御用を務めていた可能性も指摘されているが、その当否については今後の検討が待たれる状況にある。

本図は式部筆の屏風絵4点のうちのひとつで、山深い水辺の景観とそこで戯れる猿たちの姿が牧谿(もっけい)(南宋時代の画僧)を思わせる柔らかみのある筆遣いをもって描出されている。岩などにみる煩雑な打ち込みには明らかに祥啓画あたりとの脈絡が示唆されるが、他方、緊密かつ堅固な構図法には狩野派からの影響も顕著である。擬人化されてあらわされた猿の表情が何ともほほえましい。

獅子・狛犬像(12世紀)

獅子・狛犬像は、たんに狛犬とよばれる場合が多いが、正確には頭上に角を持たない方が獅子で、持つ方が狛犬として区別される。向かって右に置かれる獅子は口を開き、左の狛犬は口を閉じて、両者で「阿(あ)・吽(うん)」を構成する例が多い。

頭上に角を持つ守護獣は中国や朝鮮にも先例があるが、それを獅子と組み合わせて一対とするのはわが国独自のもので、おそくとも平安初期・9世紀にはその組み合わせがみられる。

獅子・狛犬像(12世紀)

鎌倉時代の仏像は運慶、快慶らの慶派仏師を中心に、平安時代後期の穏やかで繊細な作風から一転し、天平彫刻などの古典にならった現実感のあるものがつくられるようになる。獅子・狛犬像についても同様の傾向をしめし、奈良風の力強い姿が復活する。
本像はかつて京都花背の峰定寺(ぶじょうじ)に伝来したもの。穏やかに流れるたてがみの表現などには平安後期の作風を多分に残すが、頭をもたげた姿勢や鋭い表情にはすでに鎌倉的な息吹きがみられる。その特徴から本像の製作年代も、両時代の過渡期である12世紀末ころかと考えられる。

本像はかつて京都花背の峰定寺(ぶじょうじ)に伝来したもの。穏やかに流れるたてがみの表現などには平安後期の作風を多分に残すが、頭をもたげた姿勢や鋭い表情にはすでに鎌倉的な息吹きがみられる。その特徴から本像の製作年代も、両時代の過渡期である12世紀末ころかと考えられる。

槙鹿蒔絵螺鈿料紙・硯箱(16~17世紀)

梨地(なしじ)、平蒔絵(ひらまきえ)、螺鈿(らでん)、錫板の象嵌(ぞうがん)を駆使して、硯箱には水辺に憩う雌雄の鹿を、料紙箱には土坡(どは)に伸びる槙の木と鹿を配している。いずれのモチーフも著しく意匠化され、異なる材質の効果的な組み合わせにより、くっきりとした表情を見せている。

また、図は蓋表から身の側面を経て底面にまで続き、箱の表面全体で一画面を構成する。硯箱の蓋裏と見込みの意匠は槙の木のみであるが、料紙箱の蓋裏では、土坡に槙の木が伸び、その枝を透かして銀板による巨大な満月が見え、画面全体に錫板製の文字で『古今和歌集』所載の「秋の月山べさやかに照らせるはおつるもみぢのかずを見よとか」が散らし書きにされている。

作者、永田友治(ながたゆうじ)は正徳、享保の頃(18世紀前半)に活躍したことと、尾形光琳(おがたこうりん)の作風を慕って「青々子」と号したことが知られるのみで詳しいことはわかっていない。硯箱、料紙箱ともに、底部に「青々子」銘と「方祝」印がある。同じ銘や印をもつ作品はほかにも知られるが、本作品のような大作はほとんどなく、この一具が友治の代表作と考えられている。

粉彩松鹿図瓶(18世紀)

胴部に、松林の下に群れる鹿の姿が非常に細緻に描き込まれているが、ここにはヨーロッパ系の七宝技術を応用して、清時代康煕(こうき)年間(1662-1722)に開発された粉彩の技法が用いられている。

頸部に貼り付けられた浮き彫り状の蝙蝠(こうもり)が、本来は黒いはずであるにもかかわらず、ことさら真っ赤に彩色されているのは、蝙蝠の「蝠」の字と「福」、「紅」と多量を意味する「洪」の字の音がそれぞれ通じていることから、溢れるほどの福を象徴させるためであるらしい。さらに、「鹿」と「禄」の字の音が通じており、これに不老長寿の象徴である松の木が加えられることによって、福禄寿が寓意@ぐうい@されるという具合に、器全面が吉祥の意匠で埋め尽くされている。

宮廷専用の陶磁器を生産していた官窯の製品として誠に相応しい意匠であり、高台内の青花銘から乾隆(けんりゅう)年間(1736~95)の焼造であることが知られる。

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