1939年~1989年

歴史による離別

Polish History Museum

「歴史による離別」プロジェクトの目的は、ポーランド人が経験した20 世紀最大の衝撃的な出来事の一つである 1939~1989 年の家族の離別を文書で記録することです。この離別は、特に戦争時代の再定住と国外追放、政治的投獄、共産党時代に行われた政治的または経済的理由のために西側諸国に移住する決断によるものでした。

そのため、私たちは離別した家族の思い出を保存して国内のポーランド人の歴史とポーランド人の移住の歴史とのつながりを確立し、若い世代にも親戚や知人の歴史に興味をもってもらいたいと考えています。

家族の物語に 1 つとして同じものはないので、どの報告や話も非常に貴重です。これらの物語は 20 世紀にポーランドやこの地域の他の国での生活の経験と複雑さがどれほど幅広いかを証明しているため、すべて記録する価値があります。

イミルコウスキ一家は、第三帝国によって併合された領土に住む数千人のポーランド人と同じ運命にありました。これらのポーランド人は集団処刑、国外追放、強制収容所への投獄、強制労働の対象となりました。イミルコウスキ一家の歴史は、暴力と死に直面した子供の無力さについての話です。また、自分たちの子供を悪と苦しみから守ることができない親の話でもあります。

イリーナとジグムント イミルコウスキの長女マリアは、ポメラニアのプレヴノという村に両親と姉妹(ハリーナ、ゾフィア、ジグニュー)とともに暮らしていました。彼女の母方の祖父母も近くに住んでいました。1939 年 8 月、父親のジグムント イミルコウスキは兵役に服するために家を離れました。ジグムントはフロドナで第 29 軽砲連隊に所属して戦い、1 か月の長旅の後に帰宅しました。

イリーナとジグムント イミルコウスキ、1937 年
マリア ブリロウスカ(旧姓イミルコウスカ)の回想、2009 年
プレヴノはドイツ帝国の西プロイセン地区のグダニスクに併合されます。イミルコウスキ家の農場はドイツ人に奪われ、一家は元の家の 1 室に住むことになりました。
マリアの祖父レオン コワルスキは、第一世界大戦中にレジオンで戦ったポーリッシュ ウェスタン ユニオンの有名な運動家でした。ポーランドのエリートの多くの代表者と同様、彼は逮捕され 1939 年秋に銃殺隊に処刑されてグルナ グルパ(グルジョンツの近く)に埋葬されました。

ナチスにはポーランド人と他のスラブ民族を劣等民族として奴隷にする計画がありました。ナチスは中等/高等教育機関と文化機関をすべて閉鎖し、ポーランドのエリートは殺されるか、強制収容所に送られました。

レオン コワルスキがレジオン クロス(ポーランドのレジオン メンバー 団体のバッジ)を授けられたことを示す証明書、1927 年

1941 年 12 月、イミルコウスキ一家はポトゥリツェの収容所に強制移送されました。収容所の状態は極めて過酷で、収容者は飢え、病気、寒さに苦しんでいました。しかし最悪だったのは離別を強制されたことでした。まず、マリアの父親が航空機製造工場に送られました。次に、重い病気にかかった彼女の妹ハリーナがビドゴシュチの病院に送られました。 妹は非常に弱っていたため、収容所に戻ってきたときには杖を使って歩かなければなりませんでした。 最も辛かったのは、1942 年の春に領主館の地所で働くために送られた母親との離別でした。その 1 か月後、収容所の管理者がゾフィアとジグニューを連れ去りました。マリアとハリーナだけが残されたのです。

父親に発行されたイミルコウスキ一家の収容所番号、1941 年
ポトゥリツェ収容所で子供たちが作り、ひそかに歌っていた歌、1941~1944 年

「それから、彼らは車で私たちを兵舎に連れて行きました。そこは暖房がついていなくて、過密状態で、冷たく暗いところでした。私たち家族 6 人は一緒に使うように 3 平方メートルのスペースを割り当てられました。地面にじかに敷いたわら布団の上に寝ました。兵舎には床がまったくなかったのです。壁にはひびや隙間があり、部屋に窓はありませんでした。傾いた屋根はほとんど地面に着きそうでした。そこで立ったり座ったりするのは無理なので、横になっているしかありません。そのため、すべての家族が押し合いながら、男性、女性、子供が関係なくくっつき合って横になっていました。兵舎には水道も下水設備もありませんでした。トイレは外にあります。兵舎の真ん中だけはまっすぐに歩くことができました。

子供はおもらしして、下痢に苦しんでいましたが、体を洗ったり、濡れた下着や服を乾かしたりする方法はありません。シラミ、ノミ、ダニがいました。」

マリア ブリロウスカ(旧姓イミルコウスカ)の回想録「歴史的な出来事による家族との離別」、2008 年
マリアの祖母ウィクトラ コワルスカは家族でただ一人自由でいられました。他の多くのポーランド人同様、彼女は、有刺鉄線越しでしたが投獄された娘や孫に会い、支えるためにポトゥリツェの収容所を訪れました。

「面会日には、たくさんの人が強制収容所に来て家族や友達を見舞いました。有刺鉄線の両側が混雑し、皆、騒々しく家族の顔を探し、大声で互いを呼び合いました。実際に聞こえるように誰もが叫ばなければなりません。こんな風に皆が有刺鉄線越しに叫んで話していると、ただ激しい罵り合いをしているかのようでした。この状態は言葉では言い表せません。」

マリア ブリロウスカ(旧姓イミルコウスカ)の回想録から「歴史的な出来事による家族との離別」、2008 年
イミルコウスキ姉妹にとって最も困難な時期は、スムカラの収容所にいたときです。 そこでは子供たちが飢え、病気、極度の疲労で瀕死の状態でした。姉妹はなんとか生き延びてポトゥリツェに戻りました。
強制労働は労働の抑圧の形態の 1 つであり、産業と農業のための安い労働力を得る方法でした。マリアの父親は航空機製造工場に送られ、母親はドイツ人の地所に送られました。ゴーテンハーフェン航空機製造工場で強制労働中のジグムント イミルコウスキ(左から 3 番目)、1941~1945 年
強制労働者の賃金はドイツ人労働者の賃金よりもはるかに低いものでした。ジグムント イミルコウスキがゴーテンハーフェン航空機製造工場で働いているときに稼いだお金はポトゥリツェ収容所の口座に送金されました。しかし現実には彼に給料が払われたことはありませんでした。ジグムント イミルコウスキの賃金のカテゴリに関する通知、1944 年
マリアはドイツの行政区域であったオルウォボに送られました。そこで彼女は過酷な労働体制に耐えていました。 赤軍の到着後、マリアの祖母が彼女を見つけ、プレブノに連れて帰りました。母親は既に家で待っていました。 オルウォボ行政区域によるマリア イミルコウスカの登録抹消証明書、1945 年
ジグムント イミルコウスキは 1945 年、グディニャからレウビンゲンの収容所へ移送されました。彼はそこで空襲を生き延び、1945 年 4 月にアメリカの解放軍に救出されます。その後、彼はグロース グレーフェンドルフに滞在しています。
7 月、ジグムント イミルコウスキはまだメルゼブルクにいました。身内の消息はわからないながらも、希望を失わず、故郷のプレブノに戻る決意をします。

「父が帰ってきたのは暑い夏の日でした。父の面影はありませんでした。1941 年 12 月以来の再会でしたが、その頃とはまるで別人で、背中を丸めた父はまるで物乞いのように見えました。灰緑色のアメリカ軍の上着を着ていましたが、スーツケースの中にはもう 1 着、青灰色のアメリカ軍の上着が入っていました。 この 2 つがアメリカの収容所から持ち帰った唯一の私物でした。 戦前からの知人で仕立て屋のドンジーロさんがこの軍服から私たち子供のためにコートを作ってくれました。」

マリア ブリロウスカ(旧姓イミルコウスカ)の回想録「歴史的な出来事による家族との離別」、2008 年
1946 年、新たな家族、ジヂスワフが誕生します。イミルコウスキ家で唯一戦争を体験することのない子供です。1949 年、イミルコウスキ姉妹(左から)マリア、ゾフィア、ハリナと弟のジヂスワフ
イレナとジグムント イミルコウスキ夫妻、1950 年代

「私は 12 歳で、読むことも書くこともできませんでした。(...)収容所から開放された後、私たちは何の支援も得られませんでした。(...)戦後のその頃、1956 年くらいまでは、私たちにとってつらく、我慢ばかりの日々でした。しかし、両親と兄弟と一緒にいられて、学校にも行けたので、私は幸せでした。」

マリア ブリロウスカ(旧姓イミルコウスカ)の回想録「歴史的な出来事による家族との離別」、2008 年
第二次世界大戦中、離れ離れになったイミルコウスキ一家がたどった道筋
ムウィンザク家の歴史には、ソビエト占領下でポーランド人が体験したことが凝縮されています。戦争はカジーミエシュと妻のゾフィアを永遠に引き裂きました。列車は 2 人をほとんど反対方向のロシアの奥地へと連れて行き、1945 年という年は彼らに何の希望も与えませんでした。アンデルス旅団とともにイギリスへやってきたポーランド人政治家にとって、戦後の共産党当局は脅威で、ソビエト連邦に抑留された妻や息子たち(バルデマールとイェジー)に再会することは不可能でした。

カジーミエシュ ムウィンザクは国境警備兵で、警官の研修コースを修了していました。 彼は 17 歳のゾフィア ビルズテンと出会い、ヴィリニュスにある聖ヨハネ教会で結婚します。1 年後、ゾフィアは息子のバルデマール カジーミエシュを出産、1392 年には次男のイェジー ヘンリクを出産します。1930 年代半ば、カジーミエシュは巡査に昇進し、一家はヴィリニュスのクジェニエクに転居します。一家はそこで戦争が勃発するまで暮らしました。

警官の制服姿のカジーミエシュ ムウィンザクと友人のヤン ニェヂウィェチ、1920 年。
1928 年、ゾフィアとカジーミエシュ ムウィンザク夫妻 – クラソチンの両親に送られた写真
1930 年代、クラソチンの両親の家に滞在中のカジーミエシュム ウィンザク、妻と息子のバルデマールと共に。

赤軍がポーランドに侵攻した後、カジーミエシュムの部隊はリトアニアに撤退しますが、そこで彼らは抑留されます。これがソビエト連邦に向けての長い旅路の始まりになりました。カジーミエシュムはまずムルマンスク北部に連行され、その後、コラ半島を横断してアルハンゲリスクへと送られました。

1941 年、コジエルスク収容所のカジーミエシュ ムウィンザクから両親に宛てた手紙

1939 年 9 月 17 日、赤軍がポーランド東部から侵攻し、リッベントロップ モロトフ協定(ヒトラー スターリン協定)の秘密の協約で規定された第三帝国に対するスターリンの義務を果たします。ソビエト連邦政府は併合された領土に住む 1,350 万のポーランド人に対して、強制的にソビエトの市民権を与えると宣言しました。1940 年 2 月から 1941 年 6 月にかけて、大勢のポーランド国民がソビエト奥地に強制送還されました。それは、将校、役人、警官、法律家、医師、その他ポーランドの知識人たちの家族にも及びました。そしてその多くが移送時の非人間的な環境やシベリアやカザフスタンでのつらい生活に耐え切れず、命を落としたのです。

シベリアのゾフィア ムウィンザクから義理の両親に宛てた手紙。ゾフィアは 1940 年 4 月に同地に送還されました。ゾフィア ムウィンザクは 8 歳のイェジーと 12 歳のバルデマールと共に列車を乗り継ぎ、東へ東へと連行されました。まずノヴォシビルスク、次にアルタイ地方の集団農場へとやって来ました。

1941 年 6 月、ナチス ドイツがソビエト連邦に侵攻すると、ポーランド亡命政府とスターリンの間である合意がなされました。その結果、多くのポーランド人が刑務所や労働収容所から開放されました。合意を受けて、USSR にヴワディスワフ アンデルス少将の指揮下のポーランド国防軍が組成されます。1942 年後半には、アンデルス軍の 41,000 人の部隊が 74,000 人の民間人を引き連れて中東へと逃れました。

1941 年秋にポーランド人に恩赦が与えられると、カジーミエシュは志願してアンドレス少将のポーランド軍に入隊します。この軍はタチーシチェフで組成されていました。翌年の 3 月、彼は兵士として USSR を去ります。軍警察部隊に所属したカジーミエシュ ムウィンザクは第 2 ポーランド部隊とともに、イラク、イラン、パレスチナ、エジプト、イタリアへと移動していきました。

ポーランド国防軍のカジーミエシュ ムウィンザク。1942 年、中東にて

1942 年 9 月 12 日、アンデルス少将の軍と 1941 年トブルクの防衛での英雄、独立カルパチア旅団が統合して中東のポーランド国防軍が組成されました。当初イラクに駐留した部隊は、健康を取り戻します。1943 年、イタリアに侵攻するという同盟国の計画のために、部隊の大半はパレスチナに向かいました。

軍警察部隊に所属したカジーミエシュ ムウィンザクは第 2 ポーランド部隊ともに、イラク、イラン、パレスチナ、エジプト、イタリアへと移動していきました。

ポーランド軍最大の部隊は第 2 ポーランド部隊で、ほとんどがアンデルス少将の部隊でした。1944 年のイタリア作戦に参加し、1944 年 5 月のモンテ カッシノの戦いで名声を獲得すると、その後、アンコーナとボローニャを開放しました。

1944 年、攻撃後のピエディモンテの小さな町(モンテ カッシノの近く)の廃墟で
戦後、西側同盟国と USSR の間の衝突を予測したアンデルス少将は、ソビエトに占拠された国々の解放を期待して、自分の部隊を結成します。1946 年の初めには、兵士の数は 10 万人を上回りました。1946 年、イタリア従軍中のカジーミエシュ ムウィンザク

1946 年 2 月、イギリス政府はポーランド国防軍の解散を決定しました。その後、9 月にはポーランド再定住団の結成に同意します。これは、兵士たちに市民生活を送る準備をさせることでスムーズに復員のプロセスを行うことを目的としていました。兵士たちは方々の元軍事キャンプへ向かいました。たとえばその後 1955 年まで機能していたフォクスレイなどです。

1947 年、フォクスレイ キャンプ(イギリス)のカジーミエシュ ムウィンザク。ポーランドに戻った兵士たちは共産党当局に抑圧されました。兵士たちの大半はイギリス、カナダ、オーストラリアのイギリス領の領土に定住する権利を得ました。
カジーミエシュ ムウィンザクは 1940 年 4 月の集団国外追放で妻子がシベリアに追放されたことを 1941 年になるまで知りませんでした。その頃ポーランド国防軍にいたカジーミエシュは家族をロシアから救い出そうと努力を重ねます。1943 年、カジーミエシュは妻と息子たちのためにバグダッドでパスポートを取得しました。

戦後カジーミエシュ ムウィンザクはイギリスに定住し、妻と息子たちを呼び寄せるために懸命に努力しましたが、叶いませんでした。ゾフィアは強制的にソビエト市民にさせられたため、夫と再会するために USSR を離れることは不可能でした。

その間、家族は手紙や写真で連絡を取り続けました。1990 年、イングランドのカジーミエシュを孫娘のオルガが訪ねました。長男バルデマールの娘です。

1965 年、ゾフィア ムウィンザクと孫のオルガとビクトール
1957 年、バルデマール ムウィンザクと妻のヴァラ
1987 年、ロンドンのカジーミエシュ ムウィンザク
自叙伝『我が伝記』。カジーミエシュ ムウィンザクは 1939 年、リトアニアのロキスキスの収容所で手記をつづり始めましたが、盗難に遭い紛失しました。第二次世界大戦後、イギリスで苦労して再び書き上げます。1990 年代初め、原稿はポーランドに住む兄弟、ビタリスの手に渡りました。
離れ離れになったムウィンザク一家がたどった道筋
スバドレール一家は戦争中、長期間の離散と身内の死を経験しました。フランチェスコはドイツに捕らえられ、戦争が終わるまでオフラグ(将校収容所)で過ごしました。再会して全員で同じ未来を過ごそうという彼らの望みは、ワルシャワ蜂起に起因するフランチェスコの妻と息子の死によって絶たれました。離散は戦争よりも長く続きました。フランチェスコがポーランドに帰国し成長した娘たちに再会できたのは 1956 年のことでした。

スタニスラワとフランチェスコ スバドレール夫妻はウッチに住居を構え、幸せな結婚生活を送っていました。フランチェスコは法律家として成功しており、スタニスラワは家族と社会生活とチャリティーに毎日忙しく過ごしていました。夫妻は毎日夕食を大家族と共に取ります。家族は長男のボデック、娘のバーバラとテレサ、祖母のエミリア ルトムスカ、叔母のアデラ(皆からはデラと呼ばれていました)で、他にも事務所の秘書や法律研修生、その他大勢の親戚や客が集まったものでした。

2009 年、テレサ リビカ(旧姓スバドレール)による回想

1939 年 8 月、フランチェスコ スバドレールは家族と休暇中に徴兵されました。家族に別れを言うためにフランチェスコは制服姿で家に戻りましたが、これが家族全員が揃った最後になりました。

1939 年の防衛戦に敗れた結果、およそ 42 万人のポーランド軍兵士がドイツの捕虜収容所に連行されました。将校はオフラグへ、兵卒や下士官はスタラグへと送られました。フランチェスコはグロス ボルン、ザントボステル、ブロームベルクの捕虜収容所で 6 年を過ごすことになります。

スタニスラワ スバドレールと子供たち、ボデック、バーバラ、テレサの写真。1941 年から 1944 年にかけての占領期にピョルヌフ、ワルシャワ、グウォヴノで撮影したもの。一部はオフラグに抑留中のフランチェスコ スバドレールへの手紙に同封して送られました。

占領期、スタニスラワ スバドレールは家族を養うため、ちょっとした商いを始めましたが、これは厳しく禁じられていたことでした。何度となく、ウッチの自宅から物を持ち出しました。ウッチは戦争勃発後、第三帝国の国境内だったため、境界を不法に超えることは非常に危険でした。

占領下ポーランド領地の生活は、さまざまな規制や禁止事項に満ちていました。夜間外出禁止令、ラジオ機器所有の禁止、「nur für Deutsche(ドイツ人に限る)」と印のついた場所への立ち入り禁止、さらに食料の売買も禁止されました。法律違反は厳しく処罰され、投獄、ドイツへの追放、強制収容所送り、あるいは死刑に処される場合もありました。

ドイツ占領下での生活。違法な国境横断と密輸

「母が私たち大家族を養うのは並大抵のことではなかったはずです。タバコの売店があって、そこでタバコを売る代わりにちょっとした特権を得ていました。「自家製」のタバコも我が家でたくさん作っていました。私の小さな手はこの仕事に向いていたようで、紙にタバコをくるむのが誰より早くできました。(...)母とバーシアはオーガンジーで花の装飾品(ブローチやヘアピン)を作り、私たちはストリング バッグを編みました。「便利屋」ボデックは時計や電気製品を修理したり、紐で靴を作ったりしました。」

テレサ リビカ(旧姓スバドレール)の回顧録『私のママ』(2007 年)より
売り物のハンドバッグを作るテレサとバーバラ スバドレール姉妹、1941 年~1943 年
戦争の間中、愛や気遣い、慰めの言葉などでいっぱいの手紙がオフラグとワルシャワの間を行き来しました。 遠く離れた地からフランチェスコは妻のスタニスラワをサポートし、子供たちの教育を助けました。家族も、占領下のワルシャワでの暮らしのつらさには一切触れず、陽気な手紙を彼に送り続けたのでした。
戦争捕虜と家族間の文通は、特殊な形式の便箋か葉書に鉛筆で書く必要があり、その内容は検閲官によってチェックされました。

愛する家族の悲劇的な死。

バーバラとテレサは 1944 年、両親の友達とグウォヴノの田園地帯で休暇を過ごしました。しかし彼女たちは二度とワルシャワに戻りませんでした。母、兄、デラがワルシャワで公開処刑されて亡くなったという知らせが届いたのです。

戦争の終わりが家族離散の終わりではありませんでした。 フランチェスコ スバドレールはポーランドに帰国できませんでした。戦前の保守国民党での政治活動がポーランドの新しい共産党当局に敵対的なイデオロギーとみなされるため、その処遇を恐れたからです。

西側のポーランド国防軍の制服を着たフランチェスコ スバドレール。

フランチェスコは戦後もドイツに留まりました。のちにニューヨークへ移住しますが、その前にポーランドに立ち寄り、娘たちに再会しました。1956 年のことで、娘たちは既に成人していました。

フランチェスコは長い年月、戦争中と同じように、愛情、励まし、恋しさを込めた手紙を送り、娘たちに愛情と気遣いを示し続けたでしょう。
第二次世界大戦中と戦後、離れ離れになったスバドレール一家がたどった道筋
これは 2 人の人物の歴史です。異なるルートをたどってイングランドに行き着いた 2 人が出会い、結婚し、子供を育てるのですが、戦時中、2 人の道が交差することはありませんでした。2 人は別々の場所で困難を乗り越えました。1 人はドイツの占領下で、もう 1 人はソビエトの占領下で。
ユリアン ストリヤクはウッチ地方の町、オヘジンで生まれ育ちました。高校を卒業すると彼はリヴィウへ転居し、教師として働き始めます。
1936 年、彼はやはり教師だったイレーナ シゼヴィスカと結婚します。2 年後、彼は心理学を勉強し始め、なんとか 1 学年を修了した頃、戦争が勃発しました。
1939 年 8 月下旬、ユリアン ストリヤクは召集されました。9 月 1 日、彼の部隊の出発を見送りにきた妻の顔に気付きますが、妻の顔を見たのはこれが最後になりました。

1939 年 9 月 1 日、ドイツ軍は北部、西部、南西部からポーランドに攻撃を仕掛けました。ポーランド軍は必死の抵抗を見せましたが、より強力で人数に勝るドイツ軍を止めることができませんでした。

ユリアンは第 19 歩兵連隊の重機関銃小隊を指揮し、プウォツク近くでの戦いに従事しました。 しかし彼は迫撃砲の爆撃を受けて負傷し、病院へ送られます。
1939 年、ブラウンシュヴァイクのドイツ捕虜収容所、オフラグ XI B のユリアン ストリヤク。 1939 年の防衛戦に敗れた結果、およそ 42 万人のポーランド軍兵士がドイツの捕虜収容所に連行されました。将校はオフラグへ、兵卒や下士官はスタラグへと送られました。

ユリアン ストリヤクはドイツの捕虜収容所で 6 年間過ごしました。監禁状態の中、彼は妻が USSR に国外追放されたことを知ります。 彼は妻と連絡を取ろうと努力を続けます。直接連絡を取ることはほとんどできませんでしたが、ロズニアタフ(占領下ポーランド)のいとこの手紙のおかげで、妻の様子を知ることができました。

1941 年、USSR で亡命生活を送るイレーナ ストリヤクから占領下ポーランドに住む夫のいとこへの葉書
1944 年、ユリアン ストリヤクがタンガーヒュッテ捕虜収容所の野戦病院からポーランドの家族に宛てた手紙
1942 年、イリーナ ストリヤクからの手紙が止まります。彼女は 1942 年、遠く離れたグザルで亡くなっていました。しかしユリアンが彼女の死を知ったのは戦後になってからでした。そのときまで、彼は彼女が中東のどこに連れて行かれたのか探し当てようとしていました。
戦後、大勢の人々が身内の消息を知ることができませんでした。市民グループや軍の組織が家族の消息探しや再会を手伝いました。先頭に立ったのはポーランド赤十字で、情報を提供して国民を手助けしました。

1945 年、ユリアンはゲルリッツの捕虜収容所からの脱出に成功します。彼はボヘミアを通って、ドイツからフランスへ移動し、ポーランド軍に入隊しました。

1946 年、ルルドへ向かう途中のユリアン ストリヤク(右から 2 人目)
1946 年、フランスのラ クルティーヌのポーランド軍事キャンプのユリアン ストリヤク
1946 年、ユリアン ストリヤクの兵役を記録した文書
1949 年、ポーランド再定住団の解散により、兵役の終了
1949 年、イングランドのフォクスレイ キャンプのユリアン ストリヤク。復員後、彼はマンチェスターに定住し、時計職人として働き始め、新たな家族を作ります...
ヒラリア ボロフスカはビャウィストクで生まれ育ちました。中等学校を卒業すると、彼女は事務員として働き始めます。そして彼女が 26 歳のとき、戦争が勃発しました。

1941 年、ヒラリア ボロフスカ、彼女の母、彼女の兄弟のタデウシュは別々のルートでシベリアに移送されました。父のヴィンセンティと彼を介護していた妹だけはビャウィストクに留まりました。

1942 年、ヒラリアはパフレビ(イラン)に到着し、アンデルス少将のポーランド軍に加わり、兵站係として働き始めます。
アンデルス軍の女性補助部隊のヒラリア ボロフスカ(左側の前から 3 番目)、1943 年~1944 年

アンデレス ポーランド国防軍とともに USSR で結成された女性補助部隊は、軍と同じ組織原理と階級を持つ組織です。約 5,000 人の志願者たちから構成され、その役割は応急手当、修練、プロパガンダ、輸送、管理、歩哨、通信などさまざまでした。この組織は 1946 年に解散しました。

ヒラリア ボロフスカはアンデルス軍と共に、テヘランに向かいました。そこで彼女は兄弟のタデウシュと再会しますが、それは 1941 年に彼らが逮捕されて以来の再会でした。 1944 年 2 月、タデウシュはカラチでヤニナ マルセヴスカと結婚し、アフリカのキャンプへと去ります。まずダルエスサラームに行き、のちにキゴマへ移りました。タデウシュは 1945 年 5 月に、生後 6 か月の娘、バーバラを残して心臓の病気で亡くなりました。

1947 年秋、ヒラリアは「エンプレス オブ オーストラリア」でイングランドに向かいました。

1949 年、ウィットリーのポーランド再定住団キャンプのヒラリア ボロフスカ(前列左から 2 人目)
1949 年、トラファルガー広場のヒラリア ボロフスカ
ヒラリア ボロフスカとユリアン ストリヤクは知人の紹介で出会い、結婚してマンチェスターに定住します。1950 年、結婚式の日。
1957 年、ヒラリアとユリアン ストリヤク夫妻と子供のアンジェイとバーバラ

ストリヤク一家は 1971 年、戦争以来初めてポーランドを訪れます。30 年の歳月を経て、ヒラリアは実家の敷居をまたぎました。

第二次世界大戦中の両親の運命を語るヒラリアとユリアン ストリヤクの娘バーバラ
ヒラリア ストリヤク(旧姓ボロフスカ)が第二次世界大戦中に中東へ向かったルート。母親のたどった道筋を追って中東を旅しようとしている娘に宛てた手紙に同封されていたもの。

「私がたどった道程の地図を同封します。これを見れば理解しやすいと思います。4 月初旬、私たちは列車で(トンネルが 100 以上ありました)テヘランからアフヴァーズに向かい、アフヴァーズからは車でバスラへ、バスラからは小さな列車(客車も小さかったです)に乗り継ぎました。 道中、ずっとハムシンが吹き荒れ、腕を伸ばした先には、びゅうびゅうと渦巻く砂漠の赤い砂塵しか見えないほどでした。バグダッドからエルサレムまでは車で 4 日かかりました。その道すがら、見えるものは砂漠と黒石だけで、葉っぱ一枚ありませんでした。パレスチナの国境を越えてようやく、農地が見えてきました。4 月にして既にとても暖かく、私が着ていたのは、薄いデニムの制服で、ポプリンの半そでシャツとスカートでした。」

1975 年 4 月 29 日、ヒラリア ストリヤクから娘のバーバラに宛てた手紙より
1987 年、ベルリンの壁のそばでバーバラ ストリヤクと両親
第二次世界対戦中および戦後、離れ離れのストリヤク一家がたどった道筋
提供: ストーリー

The Polish History Museum in Warsaw expresses its sincere appreciation for their kind and helpful involvement in the project to — Maria Brylowska, Teresa Rybicka, Barbara Stryjak
Curation — Ewa Wójcicka, Polish History Museum
Proofreading — Barbara Stryjak, Tomasz Wiścicki
IT support — Artur Szymański
Exhibit's origin  — the presentation is part of the “Families Separated by History” project run by the Polish History Museum, rodziny.muzhp.pl

提供: 全展示アイテム
ストーリーによっては独立した第三者が作成した場合があり、必ずしも下記のコンテンツ提供機関の見解を表すものではありません。
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