京(みやこ)の美意識ー琳派と京焼ー

京都国立博物館

Rinpa and Kyo-yaki

The aesthetic sensibilities of Kyoto: Rinpa and Kyo-yaki 
The country’s political center shifted from Kyoto to Tokyo (then known as Edo), when the shogun established his government there in the 17th century. However, Kyoto—a city with a history stretching back to the 8th century and at the time still the seat of the imperial family—remained a fountainhead of refined culture. This is more than demonstrated by the output of artists from the Rinpa (or Rimpa) school, such as Tawaraya Sotatsu (dates unknown) and Ogata Korin (1658–1716), and potters such as Nonomura Ninsei (dates unknown), who perfected Kyo-yaki (Kyoto ware), characterized by overglaze enamel decoration. Such embodiments of innovative, elegant beauty originating in Kyoto were loved and sponsored by court nobles and wealthy merchants, nurturing the city’s unique aesthetic sensibilities that survive to this day.

鶴下絵三十六歌仙和歌巻(17世紀)
俵屋宗達画・本阿弥光悦書

俵屋宗達(たわらやそうたつ)(生没年不詳)が金銀泥下絵を描き、その上に本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)(1558~1637)が、柿本人丸(かきのもとひとまろ)以下三十六歌仙の和歌をしたためる。

画像は13.5メートルにおよぶ巻物のほんの一部。巻頭に陸地に佇む鶴の群れ。やがて鶴たちは飛び立っていったん画面外に消え、ふたたび画面内に連続して降りてくる。そして、海上をしばらく滑空し、今度は雲の上まで一気に急上昇して、ふたたび海上に舞い降り、最後に水に足を浸して休息する。鶴が飛び立ってふたたび降り立つまでの旅を、息をのむようなダイナミックさで描ききる。よく指摘されるように、一連の鶴の動きは、アニメーション効果そのものだ。

鶴は、嘴(くちばし)および羽の一部と足に金泥を用い、それ以外を銀泥で描き出す。数少ない筆数での的確な造形は、実に見事。巻頭から長く刷かれる金泥は地面だが、途中から濃淡をつけながら刷かれる金泥は天上の雲ないし霞(かすみ)。

この金泥刷きと海をあらわす銀泥描きの波濤によって、鶴の飛行高度の変化を巧みに描き出しているのである。その高度差は、実に大きい。巻子という、天地が限定された画面を逆手にとった見事な造形であり、超横長フォーマットという制限を活かしきった卓抜なデザインといえよう。
今流に言えば、宗達と光悦による絶妙なコラボレーションといってよい。

蓮池水禽図(17世紀)
俵屋宗達筆

蓮の花咲く池にかいつぶりが泳ぐ。そんな何げない景だが、筆が生命を吹き込んで豊かな世界が生まれている。


二茎の蓮は、微妙な濃淡によって葉の表裏を描き分けて椀状の形をつくり、右は上方に広がり、左は下方に伏せる。花は、今を盛りと咲く姿と、すでに花弁が散り始めた姿。その対照と対応させて、かいつぶりは、一羽は小波をたてて泳ぎ進み、一羽は足を休めて佇む。時の移ろいや動静、乾湿の対比などが絶妙に表わされている。

宋元画の蓮池水禽図がいくつか伝わっており、宗達は、それらを元に描いたと思われるが、抑制された淡い墨やきらめくような墨色、柔らかく繊細な筆づかいなど宗達独特の筆墨によって、元のものとはまったく異なる性質の画へと変容し、爽快なビジョンを獲得している。

画面左下隅に「伊年(いねん)」印のみで署名はないが、完成度の高さからも宗達直筆であることを疑うべくもなく、「たらし込み」(前の墨が乾かないうちに濃度の異なる墨を加えてむらむらを作る水墨技法)を多用していないことから、その比較的早い時期の作とみなされる。であっても、宗達の水墨の極致というべき名品であることは動かない。

太公望図屏風(18世紀)
尾形光琳筆

太公望こと呂尚(りょしょう)は、謂水(いすい)に釣糸を垂れて世を避けていたが、中国・周王朝(紀元前1023~同255)の基礎を固めた文王によって用いられ、その才を発揮した。

図様は、中国の版本『仙仏奇踪』(せんぶつきそう)から借用したものだが、大画面化にあたり、あらゆる曲線が人物の腹に収束するよう意図され、統一感のある画面が作り出されている。と同時に、なんとも朗らかな顔の表情やゆったりとした金箔地の広がりが大らかな気分を生んでおり、ひと目見たら忘れられない。

尾形光琳(1658~1716)は、京都・町衆のなかでも絵画で元禄期前後に活躍した中心人物。呉服商雁金屋(かりがねや)に生れ、初め狩野風の絵を学んだが、やがて本阿弥光悦・俵屋宗達の装飾画風に傾倒、大胆で華麗な画風を展開。また、蒔絵や染織など工芸の分野にも卓抜な意匠(光琳風・光琳模様)を提供した。その画風は弟の乾山や酒井抱一らに引き継がれ、琳派の系譜を生む。画風および「法橋光琳」の署名と朱文円印「澗聲」から、この屏風は光琳の江戸下向(元禄17年・1704、47歳)以前の制作とみなされている。

なお京都国立博物館には、光琳研究上の第一級史料として重要文化財「小西家旧蔵光琳関係資料」、光琳独特の水墨「竹虎図」も所蔵されている。

銹絵寒山拾得図角皿(18世紀)
尾形光琳画・尾形乾山作

型作り成形された正四方の一対の角皿である。縁は切立縁で、底部の周縁を面取りに仕上げている。総体に白泥による白化粧をし、銹絵で人物や賛を表して朱で印を捺し、その上に透明釉を施している。2枚ともに見込周縁を界線で囲んで、中ほどに人物図を描き、その左右に賛や銘文、落款を捺している。寒山図は、右上端に「我居山勿人識白/雲中常寂々/乾山省書」の賛と「尚古」の朱文方印、「陶隠」の白文朱印が捺され、左下端に「青々光琳畫之」と記されている。拾得図は、左上端に「従来是拾得不是偶/然稱別無親眷属寒/山是我兄两人心相似誰/能徇俗情若問年多少/黄河幾度清/乾山省書」の賛と「尚古」の手書きによる朱文方印が捺され、右下端に「寂明光琳畫之」と記されている。それぞれの漢詩の冒頭には、「乾山」の長円朱印が捺されている。2枚とも、上下を界線で仕切られた低い立ち上がりの内側には雲唐草文、外側には中央円窓内に五弁の花文を配し、その両側に雲唐草文を描いている。

現状としては一対として伝わるが、当初よりこの組み合わせであったかどうかは判然としない。本作を含む、光琳、乾山の合作については、宝永6年(1709)、光琳が江戸より京都へと戻ってきた以降であることが、落款や印章、書風などの研究で明らかとなってきている。したがって、光琳が帰洛してから没する正徳6年(1716)までの7年ほどの間に作られたものといえる。

色絵釘隠(17世紀)
伝野々村仁清作


金工品である象嵌七宝(ぞうがんしっぽう)の釘隠を陶器で写したと考えられるもので、素焼してから透明な釉薬をかけて本焼し、上絵付の技法でさまざまな色合いの絵の具を焼き付けている。金と他の色絵の具を同時に焼き付けることはできないので、完成までに少なくとも4回は窯に入れて焼かれていることになる。

丸亀藩京極家の伝来品で、扇形の釘隠は京極高或(きょうごくたかもち)(1692~1724)が藩主であった元禄8年(1695)の『万御数寄道具御印帳』に、「一、赤絵御室二枚扇釘隠シ 三拾」と記されているうちの17個に当たると考えられ、「御室」とは江戸時代前期の京焼を代表する名工・野々村仁清(ののむらにんせい)(生没年不詳)の窯で焼かれた御室焼であることを示している。

菊形の釘隠についても、京極高矩(きょうごくたかのり)(1718~63)が藩主であった享保19年(1734)の『御印御数寄道具帳』に記載がある。
印も銘も認められない小品ではあるが、金・銀・赤・青・緑と多彩な色絵の具を用いた上絵付は、やはり京極家に伝来した御室焼の色絵茶壺の一群との共通性が高く、仁清の作品の特徴をよく示している。

色絵松竹梅文高杯(18世紀)

上絵付の技法を用いて皿部上面には松竹梅、脚部には七宝輪違い・宝巻(ほうかん)・宝鑰(ほうやく)・宝珠(ほうじゅ)・方勝(ほうしょう)・丁子(ちょうじ)などの雑宝(ざっぽう)と、器を埋め尽くすかのように吉祥(きっしょう)文様が描き込まれている。

青・緑・金という3色の色絵の具だけを用いて、赤絵の具を使わない作風は、17世紀末から18世紀前半に流行した京焼の特徴で、同様の上絵付が施された壺に享保17年(1732)の箱書を伴う事例が知られている。

非常に薄作りの皿部分を、歪まないように焼き上げた技術は実に見事であるが、その工夫の形跡を皿部分の下側の設けられた高台状の凸帯に見いだすことができる。露胎(ろたい)といって、この部分に釉薬が塗られていないのは、窯に詰めるに際して下に支えを当てており、それが器に熔着(ゆうちゃく)することを嫌ったからであろう。作り手の努力の痕跡は、使い手からは見えにくい場所に隠されている。

染付名花十友図三重蓋物(19世紀)
青木木米作

青木木米(あおきもくべい)(1767~1833)は、京都の祇園(ぎおん)にあった木屋という茶屋の生まれで、陶家の出身ではなかったが、30歳になってから作陶を志したという異色の陶工。木村蒹葭堂(きむらけんかどう)(1736~1802)・頼山陽(らいさんよう)(1780~1832)らあまたの文人と交流し、書籍にすこぶる通じていたことから識字陶工と呼ばれる。

器の表面を埋め尽くすかのように描き込まれた10種類の草木の花の脇には、「韻友」「雅友」「殊友」「浮友」「僊友」「名友」「佳友」「艶友」「清友」「禅友」という文字が添えられているが、これは中国宋時代の人・曾端伯が10種の花を10人の友になぞらえたことに因むもの。いかにも文人好みの図柄であり、識字陶工とも呼ばれた木米らしさがよく現われた作品といえよう。
底裏に「陶旗職 古器観 木米製」の染付銘があり、「文化十二年乙亥﨟月 蘭渚室蔵 同十三年丙子閏八筥製」という収納箱底裏の墨書から、文化12年(1815)以前の作と知られる。

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