有田焼と伊万里焼
「有田焼」の名称は江戸時代の記録に一部見られますが、一般には明治時代の1897年、有田に鉄道が開通し、伊万里津(港のこと)に代わって全国に直接出荷されるようになってから定着したものと考えられています。同様に知られている「伊万里焼」という名称は、それ以前の江戸時代、有田を中心とする肥前地域でつくられた磁器が、主に伊万里津から出荷されたために「伊万里焼」と呼ばれました。伊万里津を出発した製品は、国内向けは大坂などへ出荷され、海外向けは長崎経由で世界に輸出されました。
有田の歴史
<b>日本で最初に磁器を焼く</b> 有田を含む肥前地区では、16世紀末から唐津を中心に陶器づくりが行われていました。その技術は、文禄・慶長の役(1592~98年)のとき、日本に連れて帰られた朝鮮人陶工たちによってもたらされました。有田周辺で磁器を焼いた窯跡を調査すると、草創期の磁器は、陶器と一緒に焼かれたのが見つかります。この時期の磁器生産の中核は、有田西部の窯場でした。1616年に有田に移住したといわれる金ヶ江三兵衛(李参平・りさんぺい)などの朝鮮半島出身の陶工集団が中心となり、おもに中国風の染付磁器を生産していました。初期伊万里様式(草創期~1650年代頃)と呼ばれます。
泉山磁石場と皿屋代官
有田の磁器生産が驚くほど短期間で大きな発展を遂げた理由として、泉山磁石場の開発による良質な原料の安定的な確保が挙げられます。佐賀藩は、1637年に燃料用の薪の伐採で山が乱れるのを防ぐために、有田皿屋(のちの有田皿山)の窯場を統廃合しました。そして泉山磁石場(いずみやまじせきば)のある有田東部に生産者を集め、磁器専業の生産体制が確立されます。その後、有田に皿屋代官(のちに皿山代官)が設置され、資源、技術、人材を一手に管理するようになります。

1820~40年代の有田のやきものの職人の様子を描いたもの。泉山磁石場から陶石を掘り出し、成形、絵付け、商品を運ぶ場面まで、30人余りの職人と20種類以上の作業が描かれています。基本的な作業は今も変わりません。

日本初の色絵磁器
日本初の磁器の誕生から30年も経たない頃、有田焼に大きな変化が生じます。中国から色絵の技術がもたらされ、遅くとも1622年には、日本で初めての色絵磁器が焼かれるようになりました。初期色絵(1640~1660年頃)といわれる、文様に色絵を使った様式が生まれ、新しい製品を次々と生み出しました。その背景のひとつには中国で1644年にはじまった明から清への王朝交替による、中国磁器の輸出の停止があります。この時期、形状やデザインの模倣にとどまらない、技術レベルでの中国磁器の影響が見られ、急速に景徳鎮風の作風へと変化しました。
海外への輸出
有田の磁器は1647年に海外輸出がはじまります。これは、1644年の明朝から清朝への王朝交代に伴う内乱で中国陶磁の輸出が困難になり、その代替品として国内、そして海外市場(アジア、ヨーロッパ)で有田の磁器が人気を得たからです。市場のニーズに応えるために、多彩な様式が生み出されました。デザインも中国風のものに加えて和様の意匠が増えていきます。

しかし、1684年以降、中国の政情が安定すると、輸出を再開した景徳鎮などの中国磁器はたちまち海外市場を奪回。

1757年にはオランダ連合東インド会社による公式な輸出が終了します。有田は国内市場の開拓、国内需要の喚起、国内販売の拡大等へと舵を切り、食生活が豊かになった町民層のニーズに応え、文様を簡略化するなどの大衆化をはかり、江戸時代の庶民の暮らしに浸透していきます。

多種多様な生産の仕組み
明治維新を迎えると、政府による殖産興業、輸出政策のもと、有田はいち早く近代化を遂げ、磁器は世界への重要な輸出品となりました。1867年にフランス・パリで開かれた万国博覧会には、すでに有田磁器が出品されています。その後も精巧な絵付け、緻密な細工、大物製品などが、ジャポニズムに沸く欧米で高く評価されました。 

大正時代から昭和初期になると、産業的な磁器生産とは別に、個人作家が活躍します。作家、窯元、大量生産、ファインセラミックスなど、個人という小規模レベルから何百人単位の大規模な仕事まで、

多種多様な生産の仕組みが維持されているところに、現代の有田の産地としての力強さと魅力があるといえるでしょう。

有田焼のつくり方 - 成形
有田では磁器の成形は「細工」と呼ばれ、細工場で細工人によって行われます。水を含んだ粘土を器の形に引き上げるロクロ成形、必要であれば型への打ち込み(型打ち)、高台や器表面の削り仕上げなど、いくつもの細かな工程を経て、成形が完成します。削りの際は頻繁に鉄カンナを研ぎながら、ていねいに削っていきます。

ロクロ成形

成形のための道具「牛ヘラ」「コテ」「トンボ」

削り

削りのための道具、鉄カンナ

染付(そめつけ)
素焼きした器の表面に、呉須(ごす)で下絵(したえ)を描いていきます。下絵とは「釉薬(ゆうやく)の下の絵」という意味で、輪廓を描く「線描き」と、面を塗りつぶす「濃み」が異なる職人によって分業されています。

線描き

濃(だ)み

本焼き
下絵付けの後に釉を掛けて、1300度以上の炎で焼成します。磁器の本焼きに使う、焼成室が1室の「一軒窯」。今右衛門窯では年8回、3人交代で32~34時間かけて焚きます。燃料は重油、赤松の薪、石炭の3種を順に使い、奥深い肌の質感と発色を引き出します。
上絵付け
下絵付けを終え、釉掛けして本焼きした白磁や染付の素地の上に、さまざまな色絵の具で文様を描いていきます。細やかな作業のため、工房は緊張感に包まれています。

絵付けの筆の道具箱

乾燥しないように、筆先だけが湿る工夫がなされている。

有田焼 《錦牡丹撫子絵額皿》今右衛門窯

有田焼 《色鍋島牡丹文高台皿 》《色鍋島牡丹文足付鉢 》今右衛門窯

有田焼 《色絵雪花墨色墨はじき草花更紗文鉢》14代今泉今右衛門

有田焼 《珈琲碗 錦 菊鳥文》柿右衛門窯
作成者: 柿右衛門窯

有田焼 《錦 牡丹唐草鳳凰文(5.5寸輪花縁)皿》
柿右衛門窯

有田焼 《芙蓉手牡丹輪花八寸皿》李莊窯業所

佐賀県立九州陶磁文化館
有田焼をはじめとする、肥前の陶磁器、九州各地の陶磁器に関し、収集・保存・展示し、調査研究や教育普及の活動などを総合的に行う、日本のやきものを見る上で欠くことのできない代表的な施設。
京都女子大学 生活デザイン研究所
提供: ストーリー

資料提供&協力: 佐賀県立九州陶磁文化館今右衛門古陶磁美術館有田町歴史民俗資料館
監修: 佐賀県立九州陶磁文化館
テキスト: 永峰美佳
映像:
編集: 坂井基樹(坂井編集企画事務所)
英語サイト翻訳:ダレン・ダモンテ
英語サイト監修:ダレン・ダモンテ
プロジェクト・ディレクター: 前﨑信也 (京都女子大学 准教授)

提供: 全展示アイテム
ストーリーによっては独立した第三者が作成した場合があり、必ずしも下記のコンテンツ提供機関の見解を表すものではありません。
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