800年間続く歴史ある陶磁器産地

丹波焼の歴史
丹波焼は、現在の兵庫県篠山市今田町立杭周辺において、平安時代末期(12世紀後半)に、愛知県の常滑焼など東海地方の窯業技術が導入されて始まったと考えられています。草創期から室町時代に至るまでは、日本国内の他の窯と同様に、壺・甕・擂鉢という実用品を主に生産しました。室町時代後期から江戸時代前期(16-17世紀)になると、新たに徳利や、茶の湯の流行に伴い茶器も生産するようになりました。江戸時代前期から中期(17-18世紀)には、「赤土部」と呼ばれる艶のある赤茶色に発色する化粧土が施されます。江戸時代後期(19世紀)には、赤土部を更に精製した「栗皮釉」と呼ばれる化粧土や、白い化粧土を用いたものが登場しました。江戸時代を通じて作られたのは、主に様々な装飾技法を用いた徳利や壺・甕などの日用品でした。 近代以降、民藝運動を提唱した柳宗悦(1889-1961)によって、丹波焼の日用品が評価されるようになり、民藝運動に共鳴した河井寛次郎(1890-1966)・濱田庄司(1894-1978)・バーナード・リーチ(1887-1979)といった陶芸家も、丹波焼の造形や装飾技法から着想を得ました。現在60軒ほどの窯元があり、現代陶芸の分野で造形作品を発表する作家もいれば、普段使いの器に軸足を置いて制作する作家もいます。
自然釉の美
 壺の表面を緑色の釉薬が流れています。これは人の手で掛けられたものではなく、燃料として用いた薪の灰が降りかかり、高温によって溶けガラス化したもので、「自然釉(しぜんゆう)」と呼ばれています。この壺を所有していた、全但(ぜんたん)バス株式会社社長の田中寛(ひろし)(1904-81)氏は、この様子を神戸市にある布引の滝に見立てて名前を付けました。
日用品としての丹波焼
口が小さい壺は、米の種籾や貨幣などを貯蔵することに使われていたと考えられますが、それに対して、口が広く底にかけてすぼまる甕は、水や油といった液体の貯蔵容器でした。土の中に埋めて据え置かれることが多く、破損した場合は廃棄されてしまうため、壊れずに残った作例は希少です。
茶道具としての丹波焼
 茶席で花を生けて飾るための器です。歪んだ形や上方に付いた耳、胴にヘラで刻まれた斜めの文様から、籐や竹で編んだ籠をまねていると考えられます。このような歪みを強調した力強い形は、大名茶人である古田織部(1543-1615)の好みを反映しており、同時代の茶道具に共通して見られます。
室町時代末期から桃山時代(16世紀後半)にかけて、質素さを追求する「侘び茶」が流行したことにより、日用品である桶などの木製品が、茶席できれいな水を入れておくための道具である水指に見立てられるようになりました。それを受けて、丹波では桶をやきもので写した水指が作られました。木の板を締める縄もしくは箍(たが)まで表現しています。
中国南部で元から明時代(14-16世紀)に作られた、肩に4つ耳が付き褐色の釉薬が施された壺は、本来香料などを輸送・保存するための容器でしたが、日本において茶葉を輸送・保存する茶壺に転用され、茶を好んだ大名や豪商たちが舶来品として珍重しました。丹波では、その形や釉薬の色調などを模倣した壺を、1620-30年代に多数生産しました。
船徳利
揺れる船内でも転倒しないように、底を広くして安定性を高めた大型の徳利は、「船徳利」と呼ばれます。鉄分を多く含んだ「赤土部(あかどべ)」と呼ばれる化粧土が塗られ、鮮やかな赤茶色に焼き上がっています。当初は酒の漏れを防止するために、土を塗って細かな隙間を詰めたと考えられますが、見た目を美しくする事へと目的が変化していった可能性があります。
赤土部を塗った上から灰釉を掛けることで、釉薬は黒褐色に見えます。側面に彫られた魚には、細い竹を半分に割った工具で鱗が表現されています。「水」の字を貼り付けた類例があることから、この甕も台所用の水甕であった可能性が高いと考えられます。このような丹波焼の素朴な美しさは、民藝運動を提唱した柳宗悦によって見いだされました。
栗皮釉
色つやが栗の皮に似ていることにちなんだ「栗皮釉」が、全体にむらなく施されています。四角い胴部や、面と面との境目に鋭くエッヂを利かせたつくりは、あたかも金属製品のようですが、持ってみるとその軽さに驚きます。底裏に「一房(いちふさ)」という印が捺されていますが、このような印銘を伴う凝った作りの高級品が江戸時代後期に登場しました。
墨流し技法
白い化粧土が乾かないうちに鉄釉を落とし、皿を動かして不定形の文様を表す「墨流し」という技法で柳の幹を表現し、枝、葉、蛙を筆で描き足しています。この図柄は、平安時代の能筆家として知られる公家の小野道風(おののとうふう 894-967)が、柳の葉に飛び付こうとする蛙の姿を見て、努力の大切さを悟ったというエピソードに基づいています。
通徳利
 「野々口酒店」という文字が記されています。客は酒屋の名前が入った徳利ごと酒を買い、酒が無くなったら徳利を酒屋へ持って行き、酒を入れてもらいます。このように店名やその所在地などが記された徳利は、酒屋と家との間を往復することから「通徳利」と通称されており、江戸時代後期から昭和30年代頃まで大量に作られました。
筒描技法
鉄分を多く含んだ顔料を竹製の道具に入れ、筒の先から流れ出てくる顔料で、壺の側面に縦方向の線を描いています。この技法は丹波で「筒描(つつがき)」と呼ばれています。通徳利の文字も、この道具によって一字ごとに途切れることなく書かれています。
民藝運動
側面が真っ直ぐに立ち上がった長方形の鉢で、裏側の四隅には四角い棒状の脚が斜めに付いています。この形は、柳宗悦が収集した丹波焼の角鉢(日本民藝館蔵)をもとにしています。柳宗悦(1889-1961)は、濱田庄司(1894-1978)や河井寛次郎(1890-1966)らとともに、無名の職人達が作った民衆の用いる普段使いの工芸品を「民藝」と名付け、その素朴な美に着目しました。
イギリス人陶芸家であるリーチは、濱田庄司との知遇を得て民藝運動に加わりました。民藝の陶芸家たちは、白い化粧土で縞模様が描かれたイギリスの日用品である「スリップ・ウェア」に惹かれ、その技法を再現しました。この皿では化粧土が乾かないうちに、縞模様を櫛状の工具で横や斜めに引っ掻いて、鳥の羽のような模様を表現しています。化粧土(スリップ)を用いる技術は丹波焼と共通しています。
日英陶器の融合
市野茂良(1942-2011)は丹波立杭の丹窓窯に生まれました。リーチが丹波を訪れる際の定宿が丹窓窯であった縁もあり、1969年にイギリスに招かれ、セント・アイヴスにあるリーチの陶房で作陶し、1973年まで滞在しました。この角皿では、白・黒・青の化粧土を縞状に施し、櫛状の工具で引っ掻いています。丹波とイギリスのスリップを融合し昇華させています。
現代の丹波焼
第18回日本陶芸展招待出品作 球体の半面に黒い化粧土を塗って縦方向の筋を彫り、もう半面に赤褐色の化粧土を塗り、表面を石で擦ることで荒れた質感を作りだしています。市野雅彦(1961―)は、丹波立杭の信水窯の次男として生まれました。内部が空洞であることが「うつわ」であるという定義に基づいて新たな造形を追究しつつも、素材の陶土や化粧土の技法など、丹波焼のアイデンティティーを強く意識した創作を行なっています。
立命館大学アート・リサーチセンター 協力:京都女子大学
提供: ストーリー

資料提供:兵庫陶芸美術館丹波立杭陶磁器協同組合

監修&テキスト:梶山博史 (兵庫陶芸美術館学芸員)

編集:京都女子大学生活デザイン研究所 渡辺雅子 (京都女子大学家政学部生活造形学科)、坂下理穂 (京都女子大学大学院家政学研究科)

英語サイト翻訳:Eddy Y. L. Chang

英語サイト監修: Melissa M. Rinne (京都国立博物館

プロジェクト・ディレクター: 前﨑信也 (京都女子大学 准教授

提供: 全展示アイテム
ストーリーによっては独立した第三者が作成した場合があり、必ずしも下記のコンテンツ提供機関の見解を表すものではありません。
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