草花のデザイン

京都国立博物館

草花のデザイン
東洋には、植物に人間の理想的な生き方を見出す文化があります。たとえば、生き生きと茂る常緑樹やツタを伸ばす唐草は繁栄や発展の象徴として、厳寒の中で育つ松竹梅は汚濁に耐え忍ぶ高潔さの象徴として、しばしば美術品に表されています。つまり、デザインされた草花には、単に作品を美しく飾る造形上の工夫だけではなく、その植物がもつ意味にふさわしい表現がなされているのです。

大宝積経巻第三十二(高麗国金字大蔵経)(1006年)

高麗時代の統和24年(1006)に千秋太后皇甫(せんしゅうたいごうこうほ)氏がその寵臣金致陽(きんちよう)と同心発願して書写せしめた紺紙金字一切経のうちの一巻であり、その一切経で現存するのは本巻のみという稀有な遺品である。
わが国や韓国に伝来する高麗時代の写経で、11世紀に遡る作品は、2、3件であろうが、それらの中では最も古い。表紙には銀泥で宝相華唐草文、見返しには同じく銀泥で三菩薩が散華供養している様子が描かれており、制作時期が特定できる絵画資料としても非常に重要な作品となっている。

料紙は厚手の紺紙で、堂々とした重量感あふれる一巻であり、経文の文字は崔成朔(さいせいさく)なる人物が書写したやや大ぶりな字形となっており、遼や契丹の影響を受けたと見られる力強く端正な字すがたを見せている。中国・朝鮮半島・日本という漢字文化圏を見渡しても、非常に貴重な一巻ということができる。

見返しの左端には、嘉慶2年(1388)近江の金剛輪寺に施入された旨の朱書がある。

牡丹唐草羯磨文様袈裟(応夢衣)(14世紀)

袈裟とは、仏教を信奉する出家者が着用すべき衣服として定められているもので、小さな生地を縫いつないで1枚の大きな長方形の生地とする点に特色がある。高僧の着用した袈裟は宝物として尊ばれ、とりわけ禅宗においては、師の袈裟を相伝することが自らの法脈の正統性を顕示することでもあったため、「伝法衣(でんぽうえ)」として格別丁重に扱われた。

この袈裟は、南禅寺の住持であった龍湫周沢(りゅうしゅうしゅうたく)(1308~88)の塔所であった慈聖院の伝法衣で、「応夢衣」との通称で知られる。その名の由来は、無準師範(ぶじゅんしばん)(1178~1249)という中国の高僧から衣を得る夢を見た龍湫のもとに、翌日まさしく無準の袈裟を贈る人があったという伝説にちなむ。

しかしながら、袈裟全体に配された手描きの印金による特徴的な牡丹唐草文様は、高麗時代に製作された経典の表紙絵と極めて似通っており、本袈裟は無準師範が活躍した南宋時代ではなく、むしろ龍湫周沢が活躍した時代の、朝鮮半島での製作とする説が有力視されている。中国や朝鮮半島には、古代・中世の袈裟はほとんど存在しておらず、日本に伝えられた作品群は極めて重要な位置を占めている。

芦手絵和漢朗詠抄(1160年)

『和漢朗詠集』は11世紀初頭に藤原公任(きんとう)(966~1041)が撰集したもので、漢詩と和歌、計804首を収録する。福岡孝弟(たかちか)(1835~1919)や原富太郎(号は三渓、1868~1939)など、名だたる蒐集家たちの手を経たこの2巻は、もともと遠江(とおとうみ)掛川藩主・太田家の旧蔵品である。

内容をみると、各巻の首題に「和漢朗詠抄」とあるが抄出本ではなく完本で、上巻には四季、下巻に雑の部をおく。下巻の奥書(おくがき)には「永暦元年四月二日、右筆黷之、司農少卿伊行」とあり、藤原定信(1088~?)の子にして当代屈指の能書・伊行(これゆき)(生没年不詳)が永暦(えいりゃく)元年4月に書写したことが知られる。このほかに伊行の確実な遺墨は伝わっておらず、唯一の筆跡としてすこぶる貴重である。

こうした希少性とともに特筆されるべきは、伊行の筆さばきを見事なまでに演出する料紙の装飾である。群青(ぐんじょう)や緑青(ろくしょう)を用いて柳・流水・水鳥などの景物にくわえ、芦手とよばれる意匠化された文字を描きこむ。この芦手には、文中の歌をキーワードとした謎がかけられているともいわれ、平安貴族の優雅な遊び心をいまに伝える。

雪裡三友図(15世紀)
玉畹梵芳等賛

三友とは松竹梅のこと。古くより吉祥的な題材として描かれてきたが、一方で厳寒の季節に枯れるどころかますます勢いを盛んにするところから、汚濁にまみれた世の中を堪え忍ぶ高士や士大夫たちの姿の象徴(ないしは理想像)としても絵画化されている。

本図はわが国で制作された三友図としては現存最古となるもので、賛者5名―岳林聖嵩(がくりんしょうすう)・惟肖得巌(いしょうとくがん)・玉畹梵芳(ぎょくえんぼんぽう)・大愚性智(だいぐしょうち)・古幢周勝(ことうしゅうしょう)―の動向などから、応永20~27年(1413~20)頃の作と推定できる。また本図制作の場として、当時、南禅寺にいた賛者のひとり、玉畹(1348~?)を中心とする詩友の集いも想定されている。

雪中にすっくと立つ2本の松とそれに寄り添うように配される梅竹の姿が黒々とした墨調をもって捉えられているが、こうした手法は「柴門新月図」(藤田美術館)など同じ応永期の詩画軸の中に散見される特徴である。

幽篁枯木図(14世紀)
郭畀筆

縦横に枝を伸ばした枯木と丈の低い篠竹をそれぞれ左右に配す。見る者に凛とした印象を残すのは、書の筆法にも通じる墨線の肥痩と潤渇、画面の疎密によるそれぞれの対比のためであろう。そこには、筆墨に託した文人の墨戯の本領が垣間見える。

筆者の郭畀(かくひ)(1280~1335)は江蘇京口(現在の鎮江)の人で、字は天錫、思退と号した。延祐元年(1314)の科挙に及第せず、学官となって文人や禅僧との交友を娯しみ、書家としても知られた。
本図の款識によれば、本図は無聞師(むもんし)なる禅僧のために描かれたもの。賛の五言絶句は枯木と緑竹のそれぞれに宿る霊気を詠むが、両者の組み合わせは南宋・金から元時代の文人社会で広く流通していた。本図の構図自体は、金の王庭筠(おうていいん)筆「幽竹枯槎図巻(ゆうちくこさずかん)」(藤井有鄰館蔵)を左右に反転させたものである。

画中の鑑蔵印は、明時代屈指の書画収蔵家・項元汴(こうげんべん)(号は墨林)をはじめ、多数にのぼる。そのなかの一人、明時代後期の李日華(りじっか)は、「元郭畀字天賜、為無聞老禅、写叢篠於古檜之根、檜横挺一禿幹、千力万気、如夜叉臂、奇作也」と記した(『六研斎筆記』巻二)。巻尾には、乾隆53年(1788)に考証学者の翁方綱(おうほうこう)が書した跋文がある。本図が歴代の文人社会でいかに鑑賞されてきたのか、その一端がうかがえよう。朝日新聞社創業者の一人、上野理一(うえのりいち)の蔵を経て、京都国立博物館に寄贈された。

梅花図冊(1754年)
李方膺筆

揚州八怪(ようしゅうはっかい)の1人で、金農(きんのう)と並ぶ墨梅の名手・李方膺(1696~1755)の画冊。売画生活をおくっていた晩年の乾隆19年(1754)の作である。
李方膺は、字を晴江といい、号は虬仲(きゅうちゅう)、衣白山人、借園主人など。揚州府通州(江蘇南通)の人。山東省楽安県や安徽省合肥県の県令などを歴任したが、乾隆16年(1751)、2度目の弾劾を受けた後、金陵(現在の南京)の淮清橋北にある項氏の花園を借りて「借園」と名づけ、売画で糊口をしのいだ。

本図はその借園で画いたもの。金陵では、性霊派(せいれいは)を率いた詩人の袁枚(えんばい)や印人の沈鳳(しんほう)ら友人たちとの交流を深めており、貧苦のなかにあっても、作画する喜びをつづった自題をもつ作品が多い。本図もそのひとつであり、第一図には、「鉄幹氷花雪裏、開精神満腹」とある。末頁の第14図にある鑑蔵印「両峰主人珍蔵」は、友人で画家の羅聘(らへい)の所持品であったことを示す。
画の構図は、天から枝を張り巡らせる、地から屹立する、屈折しながら横に伸びる、の3種で、いずれも墨梅の基本型である。しかし、幹と枝の転折を誇張し、随所に水気の多い墨をもちいることで、画中に奥行きを作り出している。墨梅画の定型を踏まえながらも、用墨の自由さが際立った一作である。

本帖の題箋は、大正・昭和初期の漢学者・長尾雨山(ながおうざん)の筆による。

白磁陰刻蓮華牡丹文瓶(12世紀)

朝鮮半島では、高麗時代は青磁生産の全盛期であり、白磁の生産は概して低調であった。そのため、高麗時代の白磁の遺例は非常に数少なく珍しいが、出土陶片から韓国全羅北道扶安郡保安面柳川里の窯で類品を焼いていたことが確認されており、地名をとって扶安白磁と呼ばれている。本例は極めて稀なその扶安白磁の一例で、類品は韓国の国立中央博物館所蔵品や日本の大阪市立東洋陶磁美術館所蔵品など、ごく数例が知られているに過ぎない。

胴部の四方に陰刻されている牡丹や蓮華の折枝文様は、中国・朝鮮陶磁の大コレクションとして著名な安宅コレクションの例(大阪市立東洋陶磁美術館蔵)と較べると、やや硬さが認められるものの、頸と胴の境に施された唐草文はむしろ複雑かつ豪華である。

柳宗悦(やなぎむねよし)(1889~1961)らの民芸運動に触発されて、昭和10年代に朝鮮陶磁を蒐集した笠川正誠(かさかわまさあき)氏が、昭和59年(1984)に京都国立博物館へ一括寄贈された龍泉居(りゅうせんきょ)コレクション77件のうちの1点である。

白地黒掻落牡丹唐草文瓶(11~12世紀)

灰褐色の地土の上に、厚く白い化粧土を塗ってから鉄絵の具をかけ、部分的に鉄絵の具だけを掻き落とすと、黒い鉄絵の具と白い化粧土の対比によって文様が表現でき、その上から透明な釉薬をかけて焼き上げるという、非常に手の込んだ技法で作られている。

この技法を白地黒掻落といい、釉薬の下に厚く白泥を施す手法は、中国北方系の窯では隋・唐時代以来伝統的によく用いられている。一方、鉄絵の具によって文様を表す作風は、中国北方系の窯の中では河北省(かほくしょう)の磁州窯(じしゅうよう)をはじめとする民窯に特徴的に認められるもので、中でも一度塗った鉄絵の具を掻き落とす手法は、北宋時代に流行したようだ。磁州窯を代表する窯である観台窯(かんだいよう)から、白地黒掻落で酷似した牡丹唐草文の施された陶片が出土しているので、本例も磁州窯産と目される。

胴部のほぼ全面を覆い尽くしている牡丹唐草文は流麗で、いくつか知られている類品と比較しても、決して遜色(そんしょく)のない出来ばえを示している。

草花文様四つ替小袖(16世紀)

金箔と銀箔を不規則に組み合わせた金銀地を背景に、初春の梅、暮春の藤、秋の楓、冬の雪持ち笹と、四つに大きく分割した背面の区画それぞれに、季節を象徴する草花を繡いあらわした小袖である。室町時代の文献では、「八つ替」など、背面を分割した区画数で小袖の意匠を記述しており、それに従えば、これは四つ替の小袖となる。現代のきものを見慣れた目には、身幅に比して袖幅が著しく狭く思われるが、これは桃山時代までの小袖の仕立てに見られる典型的な特徴である。

大胆に意匠化された草花は動きに満ち、大らかな生命力にあふれている。それらを表現するのが、輪郭線を平行に糸渡り長く繡いとる「渡し繡(ぬい)」という刺繡技法である。1枚の花びらや葉の中で唐突に色を変化させる色替わりは、この渡し繡によって生み出されている。

衣服とは身体を包み守るものであり、それゆえ、その文様には吉祥の意味がこめられてきた。1領のうちに1年の景物を揃えたこの小袖には、同時代に数多く描かれた四季花鳥図と同じように、四季の生命力が横溢する理想郷が表現されているのだろう。

菊に棕櫚文様帷子(17世紀)

濃茶の地色を背景に、右袖から枝を伸ばし、両肩を覆うように天に向かって大きく開く花と、腰から裾へと、やや控えめに開く花。ふたつの花は、背面に大きく平仮名の「て」を描くかのように配されている。この大胆な意匠構成は、江戸時代寛文年間(1661~73)頃に流行した「寛文小袖」の特徴であり、この一領はその代表作とされている。

一見すると菊にしか見えない文様だが、実は中心に菊花を置き、その周囲を棕櫚の葉で囲んだ、菊と棕櫚の合成文様である。そのことは、寛文7年(1667)に刊行され、寛文小袖という名称を生み出す源となった小袖雛形本『御ひいなかた』に、この帷子と近似する意匠が「きくにしゆろ」という注記とともに掲載されていることから明らかにできる。

当世流行の小袖意匠を集めた雛形本は、現代のファッション雑誌のように女性の心を捉え、類似作が生み出されたことだろうが、現存する作品と雛形本の意匠図が一致する例は極めて少ない。

色絵松竹梅文高杯(18世紀)

上絵付の技法を用いて皿部上面には松竹梅、脚部には七宝輪違い・宝巻(ほうかん)・宝鑰(ほうやく)・宝珠(ほうじゅ)・方勝(ほうしょう)・丁子(ちょうじ)などの雑宝(ざっぽう)と、器を埋め尽くすかのように吉祥(きっしょう)文様が描き込まれている。

青・緑・金という3色の色絵の具だけを用いて、赤絵の具を使わない作風は、17世紀末から18世紀前半に流行した京焼の特徴で、同様の上絵付が施された壺に享保17年(1732)の箱書を伴う事例が知られている。

非常に薄作りの皿部分を、歪まないように焼き上げた技術は実に見事であるが、その工夫の形跡を皿部分の下側の設けられた高台状の凸帯に見いだすことができる。露胎(ろたい)といって、この部分に釉薬が塗られていないのは、窯に詰めるに際して下に支えを当てており、それが器に熔着(ゆうちゃく)することを嫌ったからであろう。作り手の努力の痕跡は、使い手からは見えにくい場所に隠されている。

IHS椿蒔絵螺鈿聖餅箱 (16~17世紀)

聖餅(せいへい)を入れる容器。聖餅はイエスの身体を象徴するパンのことで、カトリック教会のミサで神父が信者に分け与える。本品は懸子(かけご)を伴い、黒漆地に金平蒔絵(きんひらまきえ)と螺鈿(らでん)を用いて蓋表にローマ字による紋章を描き、側面には絵梨地(えなしじ)もまじえて椿をあらわす。

IHSはイエスの名を表す記号であり、これを光輪(茨の冠とする説も)で囲み、Hの文字に十字架を立て、三本の釘を刺したハートを添えるのは、天文18年(1549)に来日したフランシスコ・ザビエルの属したイエズス会の紋章である。蓋の蒔絵は残念ながら損傷が著しく、特に蓋表はほとんど後世の補筆と思われる。

しかし、南蛮漆器の中でも礼拝用の図像を納める聖龕や聖書を乗せる見台は裕福な信者のために数多くつくられたが、神父しか用いない聖餅箱は制作数に限りがあったのか、世界的にみても十数点ほどしか知られておらず、貴重である。

染付名花十友図三重蓋物(19世紀)
青木木米

青木木米(あおきもくべい)(1767~1833)は、京都の祇園(ぎおん)にあった木屋という茶屋の生まれで、陶家の出身ではなかったが、30歳になってから作陶を志したという異色の陶工。木村蒹葭堂(きむらけんかどう)(1736~1802)・頼山陽(らいさんよう)(1780~1832)らあまたの文人と交流し、書籍にすこぶる通じていたことから識字陶工と呼ばれる。

器の表面を埋め尽くすかのように描き込まれた10種類の草木の花の脇には、「韻友」「雅友」「殊友」「浮友」「僊友」「名友」「佳友」「艶友」「清友」「禅友」という文字が添えられているが、これは中国宋時代の人・曾端伯が10種の花を10人の友になぞらえたことに因むもの。いかにも文人好みの図柄であり、識字陶工とも呼ばれた木米らしさがよく現われた作品といえよう。

底裏に「陶旗職 古器観 木米製」の染付銘があり、「文化十二年乙亥﨟月 蘭渚室蔵 同十三年丙子閏八筥製」という収納箱底裏の墨書から、文化12年(1815)以前の作と知られる。

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