金の表現―絵画編―

京都国立博物館

金の表現―絵画編―
金とは、神仏が発する聖なる色であり、また、われわれの世界に降り注ぐ晴れやかな光の色でもあります。職人は画面に表したい光の種類によって金箔や金泥を使い分け、その貼り方や塗り方にも、截金(きりかね)をはじめとした数多くの技術を施しています。京都国立博物館の所蔵品から、日本美術を彩るさまざまな「金」の魅力を感じていただきたいと思います。

山越阿弥陀図(13世紀)

山越阿弥陀とは、山のかなたに影現し、往生者を迎える阿弥陀の姿を描いたもの。日本特有の主題であり、密教の月輪観(がちりんかん)(観想というイメージトレーニングの一種)をベースに、仏の満月の尊容のイメージを重ねたのが起源と思われる。そのため、正面性の強い構図が原型と考えられるが、本図はより絵画的な情景描写を特徴としており、山間から今まさにこちらへ来迎しようかという場面を斜側面観で描く。

「やまごえ」なのか「やまごし」なのか悩ましいが、山越阿弥陀の成立には日本古来の山上他界観も影響しており、「やまごし」の方がよいと考える。つまり、山の上の他界に向かう死者の魂を待ち受ける阿弥陀の姿と考えるわけである。その意味では、本図のような表現は本来の意味がやや薄れてきている印象を受ける。

なお、巧妙に修理されているが、阿弥陀の胸と右掌には画絹の欠失があり、五色の糸が取り付けられていたと考えられており、実際に死にゆく者の枕頭で使用されていた可能性が高い。朝日新聞創立者の一人、上野理一の旧蔵品で、戦前から名画の誉れ高かった。

興福寺曼荼羅(13世紀)

最上部に奈良の春日社及び若宮社の社殿を描き、下部一杯に興福寺の諸堂に安置される諸仏像を図示したもの。春日社は藤原氏の氏神、興福寺は藤原氏寺であり、本図は興福寺を主体に描くが、春日宮曼荼羅の一種と見なすべきものである。

本図は、治承4年(1180)の年末に源平の争乱によって焼失した興福寺の罹災(りさい)以前の諸仏像の姿を伝える唯一の作品とする説があり、興福寺に残る多数の現存仏像を考える上で重要な史料的価値を持つことから名高い。

仏身には裏から金箔を押し一部では表面にも金泥を塗るように金色の使い分けが見られ、細部まで神経の行き届いた彩色を施している。また、肉眼では判別困難なほど細密な描写を特色としている。これらの絵画様式から平安時代末期から鎌倉時代初期の制作になると考えられ、治承の兵火直前もしくは直後の作品と見られる。但し、描かれた諸像には兵火後の復興仏像の姿が混じているとする説もあり、まだ謎は残る。
京都日本画壇の巨星であった竹内栖鳳(たけうちせいほう)の旧蔵品。

地蔵菩薩像(13世紀)

壬生(みぶ)狂言で知られる壬生寺(京都市中京区)の本尊を描いたもの。壬生寺本尊は壬生地蔵と言われ古来より名高く、鎌倉時代の木像が伝えられていたが、昭和37年に本堂と共に焼失してしまった。

本図は鎌倉時代後半の作で、その焼失前の本尊の姿を伝える貴重な遺品である。壬生地蔵は、本来このように背後に豪華な背障を背に半跏する珍しい姿で表され、錫杖と宝珠を手にしている。

なお、脇侍(きょうじ)を従える形式は類例がなく、向かって右脇侍は閻魔天(えんまてん)であり、左脇侍は堅牢地神(けんろうちしん)と推定されている。閻魔天は、地蔵と閻魔王とが同体であるという説に基づき、地神はインドにおける大地の神格化であり、地蔵信仰の母体となったものである。閻魔天も地天も密教での姿で表されている。

湖山小景図(15世紀)
松谿筆 翺之彗鳳賛

松谿(しょうけい)(生没年不詳)の伝歴は不明だが、画風や賛者の没年などから判断して、15世紀半ば頃を中心に活動した画僧であったと推測される。遺作には「布袋図」(京都国立博物館蔵)や「寒山拾得図」(徳川美術館蔵)などの道釈人物画もあるが、最も得意としたのは山水画であったようだ。

本図はその好例となるもので、明るい広々とした山水景観が絶妙な構図感覚とデリケートな筆遣いをもって見事に描出されている。随所に引かれた金泥の霞も効果的で、画面にいっそうの華やぎをもたらしているといえよう。彼の先輩格(あるいは師か)、周文(相国寺の僧で、室町幕府の御用絵師)の山水図が備えていた都会的(京都的)な雰囲気を一段と進展させ、磨き抜いたといった感じである。

賛者の翺之慧鳳(こうしえほう)(?~1465頃)は入明経験をもつ東福寺の僧で、雪舟あたりとも交流があった。この賛では、図の景観を彼が中国遊学の際に訪ねた杭州西湖の光景と重ね合わせている。

巌樹遊猿図屏風(16世紀)左
式部輝忠筆

古くより式部輝忠(しきぶてるただ)(生没年不詳)は祥啓(しょうけい)や仲安真康(ちゅうあんしんこう)(ともに鎌倉建長寺の画僧)と同一人物とされてきたが、まったくの別人で、およそ16世紀半ば頃、同じ関東を中心に活躍していたことが明らかとなった。また、遺作の多くを膨大な数の扇面画が占めるところから、扇絵工房を主宰していたとする説も唱えられている。さらに、具体的な活動の場については、駿河の守護・今川家の御用を務めていた可能性も指摘されているが、その当否については今後の検討が待たれる状況にある。

巌樹遊猿図屏風(16世紀)右
式部輝忠筆

本図は式部筆の屏風絵4点のうちのひとつで、山深い水辺の景観とそこで戯れる猿たちの姿が牧谿(もっけい)(南宋時代の画僧)を思わせる柔らかみのある筆遣いをもって描出されている。岩などにみる煩雑な打ち込みには明らかに祥啓画あたりとの脈絡が示唆されるが、他方、緊密かつ堅固な構図法には狩野派からの影響も顕著である。擬人化されてあらわされた猿の表情が何ともほほえましい。

鶴下絵三十六歌仙和歌巻(17世紀)
俵屋宗達画・本阿弥光悦書

俵屋宗達(たわらやそうたつ)(生没年不詳)が金銀泥下絵を描き、その上に本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)(1558~1637)が、柿本人丸(かきのもとひとまろ)以下

三十六歌仙の和歌をしたためる。
画像は13.5メートルにおよぶ巻物のほんの一部。巻頭に陸地に佇む鶴の群れ。やがて鶴たちは飛び立っていったん画面外に消え、ふたたび画面内に連続して降りてくる。そして、海上をしばらく滑空し、今度は雲の上まで一気に急上昇して、ふたたび海上に舞い降り、最後に水に足を浸して休息する。鶴が飛び立ってふたたび降り立つまでの旅を、息をのむようなダイナミックさで描ききる。よく指摘されるように、一連の鶴の動きは、アニメーション効果そのものだ。

鶴は、嘴(くちばし)および羽の一部と足に金泥を用い、それ以外を銀泥で描き出す。数少ない筆数での的確な造形は、実に見事。巻頭から長く刷かれる金泥は地面だが、途中から濃淡をつけながら刷かれる金泥は天上の雲ないし霞(かすみ)。この金泥刷きと海をあらわす銀泥描きの波濤によって、鶴の飛行高度の変化を巧みに描き出しているのである。その高度差は、実に大きい。巻子という、天地が限定された画面を逆手にとった見事な造形であり、超横長フォーマットという制限を活かしきった卓抜なデザインといえよう。

今流に言えば、宗達と光悦による絶妙なコラボレーションといってよい。

阿国歌舞伎図屏風(17世紀)

今日の歌舞伎のルーツとされるのが、出雲大社の巫女(みこ)阿国が、慶長8年(1603)に京都北野社の能舞台を代用して行なった勧進興行「かぶき踊り」といわれる。そのようすを描く絵画として、もっとも古く有名な屏風。

北野社の能舞台上、阿国の代表的な演目「茶屋遊び」が演じられている。男装の阿国演じる「かぶき者」が刀を肩にかけ、その前で、女装の狂言師演じる「茶屋のかか」がなよなよとした風情で坐って扇で顔を隠している。阿国の背後、床机をかつぐ頬かむりの者は、道化役の猿若。三味線無しの謡いで、笛や小鼓・大鼓・太鼓だけの囃子方も初期の様相を伝えるものとされる。

舞台の下では、さまざまな姿の老若男女が演技に熱中している。桐の紋のある桟敷に高位の人物が描かれているが、金扇を手にした人物が豊臣秀吉で、その一行を描くものとみる意見もある。

人物の描写はすぐれ、松の葉叢の形や下枝の描法が、京都・妙蓮寺の障壁画中のそれと近いことから、妙蓮寺と同じく長谷川派による制作とする有力説があり、描写の正確さからも、実際の興行からほどない時期に描かれたものと考えられている。

源氏物語図帖(17世紀)
土佐光吉・長次郎筆

室町末から江戸初期、色紙大の小画面に細緻に描く華麗な源氏物語画帖が、さかんに作られた。その代表作のひとつで、桃山期の土佐家を継承した土佐光吉(とさみつよし)(1539~1613)の確実な作品として知られている。宝石のように輝く精緻きわまる画面がすばらしい。

最初から第48話までは順序どおり続くが、その後6図は、前半にある6話を再び繰り返している。つまり最後の6話を欠く。近年の解体修理で、第1~35図の裏面に墨印「久翌」、末尾6図に「長次郎」の墨書が確認された。その間13図には何もなかったが、画風は最終6図と共通する。これにより、第35図までは、出家後「久翌」と号した土佐光吉の筆、第36図以降は、光吉の有力門人と思しき「長次郎」なる画家の筆と考えられている。

詞書の裏面には、筆者名をしめす注記があり、後陽成天皇を中心とした皇族、朝廷内の主だった公卿・能筆家が名を連ねている。官名等から、慶長19年(1614)から元和5年(1619)頃までにわたって書されたものと考えられている。とくに近衛信尹(このえのぶただ)の息女太郎君と近衛信尋(のぶひろ)だけが、色紙形自体に署名していることから、画帖の制作依頼者を近衛信尹の周辺に求める説が有力である。

太公望図屏風(18世紀)
尾形光琳筆

太公望こと呂尚(りょしょう)は、謂水(いすい)に釣糸を垂れて世を避けていたが、中国・周王朝(紀元前1023~同255)の基礎を固めた文王によって用いられ、その才を発揮した。図様は、中国の版本『仙仏奇踪』(せんぶつきそう)から借用したものだが、大画面化にあたり、あらゆる曲線が人物の腹に収束するよう意図され、統一感のある画面が作り出されている。と同時に、なんとも朗らかな顔の表情やゆったりとした金箔地の広がりが大らかな気分を生んでおり、ひと目見たら忘れられない。

尾形光琳(1658~1716)は、京都・町衆のなかでも絵画で元禄期前後に活躍した中心人物。呉服商雁金屋(かりがねや)に生れ、初め狩野風の絵を学んだが、やがて本阿弥光悦・俵屋宗達の装飾画風に傾倒、大胆で華麗な画風を展開。また、蒔絵や染織など工芸の分野にも卓抜な意匠(光琳風・光琳模様)を提供した。

その画風は弟の乾山や酒井抱一らに引き継がれ、琳派の系譜を生む。画風および「法橋光琳」の署名と朱文円印「澗聲」から、この屏風は光琳の江戸下向(元禄17年・1704、47歳)以前の制作とみなされている。
なお京都国立博物館には、光琳研究上の第一級史料として重要文化財「小西家旧蔵光琳関係資料」、光琳独特の水墨「竹虎図」も所蔵されている。

祇園祭礼図屏風(17世紀)左

京都の夏をつげる祗園祭は、疫病退散を祈願した平安時代の御霊会(ごりょうえ)が起源ともいわれるほど長い伝統をもつが、八坂神社の神輿渡御(しんよとぎょ)と山鉾(やまほこ)巡行は、そのハイライト。この屏風の向かって右隻が旧暦6月7日の山鉾巡行(前祭(さきのまつり))、左隻が6月14日の山鉾巡行(後祭(あとのまつり))の景だ。右隻では長刀(なぎなた)鉾を先頭に、芦刈山、占出山(うらでやま)から岩戸山、船鉾(ふねほこ)まで、23基の山と鉾、左隻では橋弁慶山を先頭に、八幡(はちまん)山、黒主(くろぬし)山から凱旋船鉾(がいせんふねほこ)まで十基の山鉾の巡行がみえる。

祇園祭礼図屏風(17世紀)右

保存状態よく、金や濃彩の響き合いがじつに美しい。また人物の顔や着衣の柄はひとりひとり描き分けられ、環境描写にも手抜きはない。そうした優れた描写、絵具や金箔の質の高さなどから、しかるべき発注者が想定されるが、各所の貼札や描写内容から、発注者は武家、具体的には京都所司代の板倉重宗(いたくらしげむね)(1586~1657)とみる説が有力だ。左隻第2扇中段の門前、赤い毛氈を敷いた集団に「せいかん寺(誓願寺)公儀奉行衆さんしき(桟敷)」の貼札があり、これが重宗一行とみられる。
制作した絵師については目下、特定はなされておらず今後の研究が求められるが、京都の絵屋の絵師、海北友雪(かいほうゆうせつ)(1598~1677)を想定する意見が出ている。

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