金の表現―工芸編―

京都国立博物館

平安時代後期、人々の篤き信仰に応えた金色に輝く荘厳具

平安時代後期、王朝人は神仏の世界を荘厳するため、儀式用具や奉納品をとことん美しく飾ることに力を注ぎました。とくに金工品は、鍍金(ときん)という技法で金色に輝く荘厳具をつくることができたので、聖なる世界の現出に大きな役割を果たしました。また、桃山時代の輸出漆器にも、豪華絢爛な金が配されていますが、やはりその多くは荘厳具です。東西の人々の篤き信仰に応えた、工芸における金のかがやきに目を凝らしてください。

如来立像(4世紀)

仏教は中国に、遅くとも紀元1世紀の後漢時代初頭には伝えられていたが、当初から広く信仰されたわけではなかった。そこまでさかのぼる仏像の遺例は揺銭樹(ようせんじゅ)や墓室の壁面にあらわされたものなど、わずかな例がしられるだけである。仏教が広く流行し、仏像が盛んに製作されるようになるのは南北朝時代の5世紀以降のことだが、それに先がけ、4世紀の東晋あるいは十六国時代の製作と考えられる古様な金銅仏が複数確認されている。

その多くは古式金銅仏と称される如来の坐像だが、本像は珍しく立像である。蓮の花をかたどった台座は本体と別に作り、そこに本体を差し込むが、現状ではしっかりとはまっていて抜けない。台座側面に「造像九躯」と読める刻銘がある。

螺髪(らほつ)ではなく結い上げた頭髪に毛筋を刻み、明瞭にあらわされた両眼や太めの口ひげなど、その容貌にはガンダーラ風を色濃く残し、通肩(両肩を覆う着方)に身につけた衣もインド風である。これらの特徴から製作は4世紀までさかのぼると考えられる。

ただし近年の研究で、これらインドないしはガンダーラ風を強く残した金銅仏には、南北朝時代以降、古式にもとづいて製作されたものが含まれている可能性も指摘されている。したがって今後研究が進めば、製作年代に関して見直されることになるのかもしれない。

金銅錫杖頭(13世紀)

錫杖とは、僧が持つべき18種の仏具のうちのひとつで、輪状になった金属製の頭部に数個の金属製遊鐶を通して穂部に柄を連結した杖である。杖を突いて歩行したり、振動させることでこの遊鐶が音を発し、遊行の道中、蛇や獣を避ける効果があるとされる。また、梵音具として妙音を発することで修行者の煩悩を打破し、仏性の目覚めを促すという効果もそなえる。

この錫杖頭は、左右各二ヶ所に括(くく)りをつけた輪を持ち、鎌倉時代の典型的な形状を示す。

輪頂にもうけた蕨手の間に宝珠を奉安し、上段の括りに塔形をたて、下段の括り近くに三日月形の金剛牙(こんごうが)をあらわす。

輪の下端の蕨手間には五輪塔を据え、蕨手上に浄瓶を置き、左右2個ずつ残存する遊鐶は断面菱形の銅線を屈曲させて独特の木瓜形(もっこうがた)とするが端部は接合されない。穂部は蓮弁を断面円形の二条線で扼(やく)した四節からなり、それぞれの節中の表現を全く違える点が特徴的である。

特筆すべき作例として、本品と遊鐶の数や細部表現まで酷似する「金銅錫杖頭」がMOA美術館に収蔵されており、これは両者が同一工房で極めて近しい時期に製作された可能性を示唆する。鋳出と彫金の仕上がりは精緻を極め、この作行の健全さに加えて、鎌倉時代における仏具工房の実態を想像させしめる重要作品である。

六器「東寺」銘 (14世紀)


密教における法要では、多くの場合本尊を前にして壇(だん)と呼ばれる正方形の台を設け、そこに密教法具を並べて修法を行う。これら密教法具の中で、仏に閼伽(あか)(浄水)・塗香(ずこう)・花鬘(けまん)(樒(しきみ)の葉をもちいる)を供するために壇の四辺4面に並べる器が六器であり、鋺(わん)と托とのセット6口で一組をなすことからこう呼ばれる。

本品はやや厚めでぽってりとした口縁の造りや、鋺の背が高めである点、正和3年(1314)銘を持つ奈良・西大寺の六器との外形的な類似点が非常に多い事から、鎌倉時代末期の製作と考えられる。また、鋺・托の各外底に「東寺」と銘を刻むことから、京都・東寺の観智院に伝来した壇具の一部と思われるが、現在では多数が寺外に流出している。

松椿蒔絵手箱(阿須賀神社伝来古神宝類のうち)(1390年)


神道では、神の住居である社殿やその調度を一新することが神の生命力を盛りかえすことになると考えられている。周期的に遷宮(せんぐう)をおこない神宝(しんぽう)を新調するのは、そのためである。明徳元年(1390)の奥書をもつ「熊野山新宮神宝目録」(江戸時代の写本、熊野速玉大社蔵)の記述から、本品は天皇、上皇、室町将軍(足利義満(あしかがよしみつ))、諸国の守護らによって熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)(和歌山県)に奉納された手箱13合のうちの1合であることが知られる。

熊野速玉大社の摂社(せっしゃ)であった阿須賀神社に古神宝(こしんぽう)として伝わり、近代になってから国有となった。一連の調度のうち、京都国立博物館はほかにも冠箱(かんむりばこ)、御衣箱(おんぞばこ)、笏箱(しゃくばこ)、插鞋箱(そうかいばこ)(くつを入れる箱)、衣架(いか)(衣をかけておく道具)などの蒔絵調度を所蔵する。

本手箱は二重懸子(かけご)をもち、大きな懸子は錦の内張り、小さな懸子は蒔絵で装飾する。内部には銅製鍍金銀の薫物箱(たきものばこ)、歯黒箱(はぐろばこ)、白粉箱(おしろいばこ)、菊花形皿、鋏(はさみ)、鑷(けぬき)、歯黒筆(はぐろふで)、眉作り、耳掻(みみかき)、髪掻(かみかき)、櫛払(くしはらい)、解櫛(ときぐし)、白磁製の皿、白銅鏡を納め、そのほかに櫛29枚を納めた蒔絵櫛箱をともなう。

意匠は、手箱、櫛箱、内容品ともに土坡(どは)に生える松と椿で統一する。常緑樹は、生命力の象徴として奉納品の意匠に好んで用いられた。手箱の外面には、詰梨地(つめなしじ)に金高蒔絵(きんたかまきえ)、研出蒔絵(とぎだしまきえ)、青金金貝(あおきんかながい)、銀鋲(ぎんびょう)といった高度な技法を駆使しており、豪華このうえない化粧道具となっている。

IHS椿蒔絵螺鈿聖餅箱(16~17世紀)

聖餅(せいへい)を入れる容器。聖餅はイエスの身体を象徴するパンのことで、カトリック教会のミサで神父が信者に分け与える。本品は懸子(かけご)を伴い、黒漆地に金平蒔絵(きんひらまきえ)と螺鈿(らでん)を用いて蓋表にローマ字による紋章を描き、側面には絵梨地(えなしじ)もまじえて椿をあらわす。

IHSはイエスの名を表す記号であり、これを光輪(茨の冠とする説も)で囲み、Hの文字に十字架を立て、三本の釘を刺したハートを添えるのは、天文18年(1549)に来日したフランシスコ・ザビエルの属したイエズス会の紋章である。蓋の蒔絵は残念ながら損傷が著しく、特に蓋表はほとんど後世の補筆と思われる。しかし、南蛮漆器の中でも礼拝用の図像を納める聖龕や聖書を乗せる見台は裕福な信者のために数多くつくられたが、神父しか用いない聖餅箱は制作数に限りがあったのか、世界的にみても十数点ほどしか知られておらず、貴重である。

IHS椿蒔絵螺鈿聖餅箱(16~17世紀)


聖餅(せいへい)を入れる容器。聖餅はイエスの身体を象徴するパンのことで、カトリック教会のミサで神父が信者に分け与える。本品は懸子(かけご)を伴い、黒漆地に金平蒔絵(きんひらまきえ)と螺鈿(らでん)を用いて蓋表にローマ字による紋章を描き、側面には絵梨地(えなしじ)もまじえて椿をあらわす。

IHSはイエスの名を表す記号であり、これを光輪(茨の冠とする説も)で囲み、Hの文字に十字架を立て、三本の釘を刺したハートを添えるのは、天文18年(1549)に来日したフランシスコ・ザビエルの属したイエズス会の紋章である。蓋の蒔絵は残念ながら損傷が著しく、特に蓋表はほとんど後世の補筆と思われる。しかし、南蛮漆器の中でも礼拝用の図像を納める聖龕や聖書を乗せる見台は裕福な信者のために数多くつくられたが、神父しか用いない聖餅箱は制作数に限りがあったのか、世界的にみても十数点ほどしか知られておらず、貴重である。

花鳥蒔絵螺鈿聖龕(三位一体像)
開扉時

16世紀半ば以降、ヨーロッパの宣教師や商人が続々と来日した。「南蛮人(なんばんじん)」と呼ばれた彼らは、キリスト教の祭礼具や西洋式の家具に蒔絵を施すよう注文し、本国へ持ち帰ったり他国へ輸出したりした。「南蛮漆器(なんばんしっき)」と呼ばれる輸出漆器である。

本品はキリスト教の礼拝画を納める壁掛式の龕(がん)。通常、この種の聖龕には取り外し可能な額絵を納めるが、本品では背板の漆面にじかに油絵を描く。父と子と聖霊は単一であるという三位一体説の教義を示すために、同じ顔の3人の男性を描き、それぞれの胸に、父なる神をあらわす太陽、子イエスを示す子羊、聖霊を示す鳩を添える。三位を年齢も相貌も同じ3人の人間で示す図は、ヨーロッパのカトリック界では異端視され、ほとんど描かれなかったが、新大陸のヌエバ・エスパーニャ副王領(メキシコ)では、その視覚的な分かりやすさが認められ17世紀以降大量に描かれたという。メキシコに本図とよく似た図像が伝わることから、本品の油彩画は17世紀以降のメキシコで描かれたと推定される。

聖龕としてはもっともシンプルな長方形で、上部の破風などもない。黒漆地に金銀の平蒔絵(ひらまきえ)、絵梨地(えなしじ)、螺鈿(らでん)で、扉表には萩(はぎ)と椿に尾長鳥を、扉裏には葡萄唐草を大柄に描く。南蛮漆器に多い螺鈿の幾何学文は一切用いていない。

牡丹唐草羯磨文様袈裟(応夢衣)(14世紀)


袈裟とは、仏教を信奉する出家者が着用すべき衣服として定められているもので、小さな生地を縫いつないで1枚の大きな長方形の生地とする点に特色がある。高僧の着用した袈裟は宝物として尊ばれ、とりわけ禅宗においては、師の袈裟を相伝することが自らの法脈の正統性を顕示することでもあったため、「伝法衣(でんぽうえ)」として格別丁重に扱われた。

この袈裟は、南禅寺の住持であった龍湫周沢(りゅうしゅうしゅうたく)(1308~88)の塔所であった慈聖院の伝法衣で、「応夢衣」との通称で知られる。その名の由来は、無準師範(ぶじゅんしばん)(1178~1249)という中国の高僧から衣を得る夢を見た龍湫のもとに、翌日まさしく無準の袈裟を贈る人があったという伝説にちなむ。

しかしながら、袈裟全体に配された手描きの印金による特徴的な牡丹唐草文様は、高麗時代に製作された経典の表紙絵と極めて似通っており、本袈裟は無準師範が活躍した南宋時代ではなく、むしろ龍湫周沢が活躍した時代の、朝鮮半島での製作とする説が有力視されている。中国や朝鮮半島には、古代・中世の袈裟はほとんど存在しておらず、日本に伝えられた作品群は極めて重要な位置を占めている。

提供: 全展示アイテム
ストーリーによっては独立した第三者が作成した場合があり、必ずしも下記のコンテンツ提供機関の見解を表すものではありません。
Google で翻訳
ホーム
トピック
現在地周辺
プロフィール