社寺ゆかりの名宝

京都国立博物館

Treasures of temples and shrines
A great majority of the cultural artifacts in Japan today have been preserved at Shinto shrines and Buddhist temples. Although there are of course exceptions, religions and faiths have universally been some of the prime motives for humans to create visual and plastic arts. Shown here are objects from the Kyoto National Museum’s collection that were created and treasured for religious purposes, including paintings and decorative art objects used in rituals, or given as offerings to temples and shrines. 

六器「東寺」銘(14世紀)

密教における法要では、多くの場合本尊を前にして壇(だん)と呼ばれる正方形の台を設け、そこに密教法具を並べて修法を行う。これら密教法具の中で、仏に閼伽(あか)(浄水)・塗香(ずこう)・花鬘(けまん)(樒(しきみ)の葉をもちいる)を供するために壇の四辺4面に並べる器が六器であり、鋺(わん)と托とのセット6口で一組をなすことからこう呼ばれる。壇の一面につき、中央に火舎(かしゃ)(香炉)を据え、その左右に内側から閼伽器(あかき)・塗香器(ずこうき)・花鬘器(けまんき)を並べ、ついで飯食器(おんじきき)と華瓶(けびょう)を置く。この壇一面分のセットを一面器とも呼び、実際の修法では右側に置かれた六器3口を前供養に、左側の六器3口を後供養に用いる。

本品はやや厚めでぽってりとした口縁の造りや、鋺の背が高めである点、正和3年(1314)銘を持つ奈良・西大寺の六器との外形的な類似点が非常に多い事から、鎌倉時代末期の製作と考えられる。また、鋺・托の各外底に「東寺」と銘を刻むことから、京都・東寺の観智院に伝来した壇具の一部と思われるが、現在では多数が寺外に流出している。

十二天像(1127年)

承和元年(834)の空海の奏請(そうせい)によって正月8日から宮中真言院で7日間の修法が行われるようになった。これを後七日御修法(ごしちにちのみしほ)という。十二天像は道場を守護するために掛けられ、普段は他の道具類と一緒に東寺の宝蔵に収められていた。

大治2年(1127)3月、東寺宝蔵は火災にあい、それまで使用されていた絵も焼失してしまう。この時、新調されたのが、本図である。最初、東寺長者勝覚(しょうかく)の命で、東大寺僧の覚仁(かくにん)は、小野経蔵(勧修寺(かじゅうじ))に伝わり、宇治経蔵(平等院)に所蔵されていた弘法大師御筆様(おんひつよう)に基づいて調進したところ、鳥羽院から「疎荒(そこう)」との批判をこうむり、改めて仁和寺円堂後壁画に基づいて新写したという。前者を甲本、後者を乙本と区分しており、本図は一般に乙本とみなされ、セットになる五大尊像とともに東寺に伝えられてきた。豊かな色彩模様と金箔を細く切った截金(きりかね)の地模様が目を奪い、貴族文化の爛熟期を代表する名品として知られている。

前者を甲本、後者を乙本と区分しており、本図は一般に乙本とみなされ、セットになる五大尊像とともに東寺に伝えられてきた。豊かな色彩模様と金箔を細く切った截金(きりかね)の地模様が目を奪い、貴族文化の爛熟期を代表する名品として知られている。

十二天面(10世紀)

かつて東寺に伝来した十二天面で、そのうちの7面が京都国立博物館の所蔵となっている。また、これらと一連のものであったと考えられる面が、ハワイのホノルル美術館に2面所蔵されている。

十二天とは八方位と天・地、日・月をつかさどる天部たちで、いずれも源流をたどるとヒンドゥー教の神々に由来する。わが国の現存作例からみると絵画としてあらわされたものが多く、仮面はきわめて珍しい。東寺では当初灌頂会(かんじょうえ)にさいしてもちいられ、のちに修理されて塔の供養会に転用されたものらしい。京都国立博物館が所蔵する7面は、菩薩像のような穏やかな表情をうかべる慈悲相をした本面および日天・帝釈天がキリ材、老相の風天・火天と忿怒相の毘沙門天・伊舎那天(大自在天)がヒノキ材で作られている。表情に動きがあり深く彫りこむ必要がある老相・忿怒相面と、浅い彫りの慈悲相で材を使い分けているのかもしれない。

10世紀の終り頃から、仏師定朝(じょうちょう)の父である康尚(こうじょう)によって仏師の組織化がなされ、その工房を中心に端正な姿の仏像が製作された。本面は作風からみて、その時期に造像された彫刻作品との共通性が高く、長保2年(1000)に東寺宝蔵の火災の際に取り出されたと記録にのこる十二天面にあたるもの、と考えられる。

山水屏風(せんずいびょうぶ)(11世紀)

この屏風は、密教の灌頂(かんじょう)という儀式で使用されてきたもので、東寺に伝来していた。法会の威儀をととのえるために日常の室内調度の屏風を転用したのがはじまりである。12世紀になって灌頂が盛んになると、次第に法会の形式も完備し、そこで使用される屏風もこの画題に決まっていった。本図は、11世紀後半に遡ると考えられる最古作であり、王朝時代の調度品の実態がうかがえる。

画題はよくわかっていないが中国の故事に求めており、「唐絵(からえ)」ということになる。描写のスタイルは中国の唐時代に由来するものだが、中国画で感じる厳しさはあまりない。「金岡(かなおか)は山を畳むこと十五重、広高(ひろたか)は五六重也」(『雅兼卿記(まさかねきょうき』)とあるように、宮廷画家として活躍した巨勢(こせ)家においても、9世紀末に活躍した金岡に比べ、11世紀初頭に活躍した広高では、既に重々たる山岳を描くことは流行らなくなっており、本図もその流れで理解できる。こうした柔らかく穏やかなスタイルを洗練させたところに「国風文化」の真面目(しんめんぼく)がある。

高野山水屏風(こうやせんずいびょうぶ)(13~14世紀)

本図は、かつて和歌山県・高野山金剛三昧院(こんごうさんまいいん)に伝来し、密教の灌頂(かんじょう)という儀礼で使用されていたと考えられている。高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)の景観を屏風一双に大きく描き、向かって左端の総門から壇上伽藍(だんじょうがらん)を経て最後に奥院で終わる。構図上中心にくるのは、右隻5・6扇の金剛三昧院である。四季の変化もこれに対応しているが、本来、日本画の視点移動は右から左であり、本図の四季の展開はこれと逆転する。これは景観の地理的位置関係を重視した結果と考えられる。

本図が伝来した金剛三昧院の盛期が14世紀前半ということから、本図の制作年代をこの頃に置く見解が主流を占める。その細密な堂塔の描写は鎌倉時代末期の高野山の姿を偲ぶことができるほぼ唯一の手がかりであり、その美しい四季の姿とあわせてやまと絵の秀作として知られている。京都の日本画家・堂本印象(どうもといんしょう)の旧蔵品。

男山八幡宮曼荼羅(14世紀)

山城国綴喜(つづき)郡(京都府八幡市)にある石清水八幡宮社頭の光景を描いた宮曼荼羅(みやまんだら)である。男山とは同宮所在の鳩ケ峯(はとがみね)の別称(標高約143メートル)で、古来よりその独特の姿形が愛され歌枕としても知られている。

中央に本殿三神と摂社四神を本地仏(ほんじぶつ)の姿で描く。上段には阿弥陀(中御前(なかごぜん))・観音(東御前)・勢至(西御前)の三尊を安置し、その下方には石畳をはさんで向かって左の上から阿弥陀(武内社(たけうちしゃ))と勢至(高良社(こうらしゃ))、右の上から十一面観音(若宮社(わかみやしゃ))と普賢(若宮殿社(わかみやでんしゃ))を配している。実景とはやや異なるが、参詣人や本殿屋根に神使(しんし)の鳩を描き、鎌倉時代末期の社頭の雰囲気を生き生きと伝えている。

天正16年(1588)の軸裏修理銘には文明11年(1479)の修理銘が転記されており、これによると、本作は石清水八幡宮を氏神とする公卿の久我家が毎月11日に行われた八幡講の本尊として石清水八幡宮に寄進したものという。明治の元勲(げんくん)にして古美術品収集で知られた井上馨(いのうえかおる)の旧蔵品。

若狭国鎮守神人絵系図(13世紀)

若狭国一宮の祭神である若狭彦大明神、二の宮の若狭姫大明神が遠敷郡西郷(おにゅうぐんさいごう)の霊河の源にある白岩の上に降臨し、これを社務笠氏の祖先である節文(たかふみ)が迎えて社殿を建立する創立譚と、笠氏歴代の肖像を描く、特異な構成の絵巻。
現状では詞書はなく、画中に適宜説明の墨書がある。絵も冒頭の若狭彦神降臨部分が失われているとみられるが、鎮座の適地を選ぶために、雲上の白馬に跨がり、節文を従えて天空を駆ける場面が遺っている。

造営された一の宮には神前に御幣を手に畏まる節文と、節文を祀る黒童子社も添えられる。続く若狭姫神は白岩に垂迹(すいじゃく)する場面と、建立成った神殿前でやはり御幣をもつ節文を描く。

続く絵系図は礼盤(らいばん)に坐す神としての像と上畳に坐す衣冠像が向き合う形式で描かれている。第12代景継(1205~1299)までは鎌倉時代の制作であるが、その後は近世に描き継がれており、寛政12年に没した第31代正房で終わっている。
縁起部分と第12代までの絵は、鋭く美しい線描に清澄な淡彩を賦している。歴代の面貌を描き分ける筆力も優れており、細線を駆使した似絵の画風の継承を示す。

温泉寺縁起(15世紀)

清少納言『枕草紙』にもその名が見え古来名湯として名高い摂津・有馬温泉(兵庫県神戸市北区)にある温泉寺の創建の縁起と霊験を描いたもの。最下段に行基が同寺を創建した伝説を、その上部には清荒神(きよしこうじん)清澄寺の僧であった尊恵(そんえ)が、閻魔王宮で法華経を講読したという冥途蘇生譚(めいどそせいたん)などを、右下を起点に千鳥状に上部へと順に描いている。

本図は15世紀前半に制作されたと見られ、明快な色彩で生き生きと人物を描写している。なお、15世紀の諸記録から、温泉寺では湯治客に代価を取って縁起絵を絵解きする僧がいたことが知られており、本図もそのように用いられていたと考えられている。本図は、元来はやはり有馬の温泉寺に伝来し、同寺が16世紀に衰退した際に寺外に流出したと推測されている。その後、箱書から寛保3年(1743)には滋賀・三井寺勧学院の什物であったことが判明し、宇治平等院塔頭・最勝院などを経て京都国立博物館の所蔵となった。

松椿蒔絵手箱(阿須賀神社伝来古神宝類のうち)(15世紀)

神道では、神の住居である社殿やその調度を一新することが神の生命力を盛りかえすことになると考えられている。周期的に遷宮(せんぐう)をおこない神宝(しんぽう)を新調するのは、そのためである。明徳元年(1390)の奥書をもつ「熊野山新宮神宝目録」(江戸時代の写本、熊野速玉大社蔵)の記述から、本品は天皇、上皇、室町将軍(足利義満(あしかがよしみつ))、諸国の守護らによって熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)(和歌山県)に奉納された手箱13合のうちの1合であることが知られる。熊野速玉大社の摂社(せっしゃ)であった阿須賀神社に古神宝(こしんぽう)として伝わり、近代になってから国有となった。一連の調度のうち、京都国立博物館はほかにも冠箱(かんむりばこ)、御衣箱(おんぞばこ)、笏箱(しゃくばこ)、插鞋箱(そうかいばこ)(くつを入れる箱)、衣架(いか)(衣をかけておく道具)などの蒔絵調度を所蔵する。
本手箱は二重懸子(かけご)をもち、大きな懸子は錦の内張り、小さな懸子は蒔絵で装飾する。内部には銅製鍍金銀の薫物箱(たきものばこ)、歯黒箱(はぐろばこ)、白粉箱(おしろいばこ)、菊花形皿、鋏(はさみ)、鑷(けぬき)、歯黒筆(はぐろふで)、眉作り、耳掻(みみかき)、髪掻(かみかき)、櫛払(くしはらい)、解櫛(ときぐし)、白磁製の皿、白銅鏡を納め、そのほかに櫛29枚を納めた蒔絵櫛箱をともなう。神々のためにつくられた調度だが、中世貴族の化粧道具を反映する内容と考えていいだろう。
意匠は、手箱、櫛箱、内容品ともに土坡(どは)に生える松と椿で統一する。常緑樹は、生命力の象徴として奉納品の意匠に好んで用いられた。手箱の外面には、詰梨地(つめなしじ)に金高蒔絵(きんたかまきえ)、研出蒔絵(とぎだしまきえ)、青金金貝(あおきんかながい)、銀鋲(ぎんびょう)といった高度な技法を駆使しており、豪華このうえない化粧道具となっている。

松椿蒔絵手箱(阿須賀神社伝来古神宝類のうち)(15世紀)


本手箱は二重懸子(かけご)をもち、大きな懸子は錦の内張り、小さな懸子は蒔絵で装飾する。内部には銅製鍍金銀の薫物箱(たきものばこ)、歯黒箱(はぐろばこ)、白粉箱(おしろいばこ)、菊花形皿、鋏(はさみ)、鑷(けぬき)、歯黒筆(はぐろふで)、眉作り、耳掻(みみかき)、髪掻(かみかき)、櫛払(くしはらい)、解櫛(ときぐし)、白磁製の皿、白銅鏡を納め、そのほかに櫛29枚を納めた蒔絵櫛箱をともなう。神々のためにつくられた調度だが、中世貴族の化粧道具を反映する内容と考えていいだろう。

松椿蒔絵手箱(阿須賀神社伝来古神宝類のうち)(15世紀)

意匠は、手箱、櫛箱、内容品ともに土坡(どは)に生える松と椿で統一する。常緑樹は、生命力の象徴として奉納品の意匠に好んで用いられた。手箱の外面には、詰梨地(つめなしじ)に金高蒔絵(きんたかまきえ)、研出蒔絵(とぎだしまきえ)、青金金貝(あおきんかながい)、銀鋲(ぎんびょう)といった高度な技法を駆使しており、豪華このうえない化粧道具となっている。

小葵文様袍(阿須賀神社伝来古神宝のうち) 1390年

日本古来の宗教である神道では、祭神の住まいや持ちものを一新することによって、神が新たな生命力を盛り返すとの思想があり、遷宮および神宝の新調が周期的に行われる。熊野三山のひとつ熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)の旧摂社である阿須賀神社でも、熊野速玉大社と同様に、かつては33年に一度、神宝を新調して奉納する習いがあったと考えられる。

現在当館が所蔵する阿須賀神社の古神宝は、明徳元年(1390)、熊野速玉大社の古神宝(同社蔵)とともに、足利義満(1358~1408)の沙汰のもと、時の権力者たちによって調進されたと伝えられており、手箱などの調度類や装束から成っている。後世に増進された品が混在すると思われるものの、製作の時期や状況を明らかにできる稀有な資料群の一部であり、中世工芸史上きわめて重要な位置を占める。

阿須賀神社の神宝は、男神の一具である。ここに挙げた袍(ほう)は、公家男性の装束の直衣(のうし)に該当するが、人間の寸法よりも一回り大きく仕立てられている。中世の公家装束は現存しないが、神宝を通してその実相の一端をうかがい知ることができる。

提供: 全展示アイテム
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