1947/12/21~2014/02/26

パコに想いを寄せて

Instituto Andaluz del Flamenco

フラメンコに革命を起こし、ジャズに多くの影響をもたらした、アルヘシラス出身のギタリストの巨匠、パコ デ ルシア(本名: フランシスコ サンチェス ゴメス)の人生と作品を巡る旅をお楽しみください。

父親の家にて
フランシスコ サンチェス ゴメス(芸名: パコ デ ルシア)は 1947 年 12 月 21 日、アルヘシラスの人種が入り混じるラ バハディーリャ近郊、サン フランシスコ通りで生まれました。ジプシーも、ジプシーでない人も、今ある問題と将来への期待を分かち合い、共に生活していた地域でした。写真は、親戚が集まったときのパコと両親、兄弟(ラモンとペペ)を写したものです。パコには、ほかにルシアとアントニオという兄弟が 2 人おり、いずれも芸術の道には進みませんでしたが、生涯を通じて兄弟は強い絆で結ばれていました。

父親のアントニオ サンチェス ペシーノは昼間はトレーダー、夜はミュージシャンとして働き、母親のルシア ゴメスは 1930 年代にアルヘシラスに来たポルトガル移民でした。パコとペペは、デュオ「Los Chiquitos de Algeciras」でその名を知られるようになります。1962 年、ヘレスで開催された国際フランメンコ コンテストで優勝し、ホセ グレコとともに米国巡業を開始しました。

民族歌手、パコ

パコはスペインに戻ると、家族とともにマドリッドに移り住みますが、ここで、さらなる成功が彼を待ち構えていました。「Los Chiquitos」から脱退後、最初はパコ デ アルヘシラスという芸名にしようと考えましたが、母親に敬意を表し、パコ デ ルシア、としました。パコはリカルド モドリーゴと組んだだけでなく、兄のラモンともイベロアメリカの歌をレコーディング。ソロ アーティストとしてガルシア ロルカ監修のポピューラー ソングのレコーディングも行いました。フラメンコ歌手になりたいと思っていたパコですが、彼自身の言葉によれば、「とてもシャイだったのでギターの影に隠れていた」のです。さらに、アントニオ マイレーナ、ファン ペニャ エル レブリハーノなどのフラメンコ歌手ともレコーディングで共演し、アントニオ フェルナンデス ディアス「フォスフォリート」とは 8 曲のアンソロジーをレコードに収めました。

伝説の反乱者たち
パコ デ ルシアとホセ モンジェ(「カマロン デ ラ イスラ」)がマドリッドとヘレスで互いを知ったのは 1968 年のことです。彼らはジプシー フラメンコ フェスティバルの長期巡業で行動を共にします。カマロンはすでにアントニオ アレナスとアルバムを出していましたが、「パコ デ ルシアのスペシャル コラボレーションで」(当時普及していたレコードのキッチュなカバーにそう書かれています)さらに 9 枚のアルバムを出すことになります。2 人は一緒に、「ラ カナステーラ」として知られる新しい形のフラメンコ「パロ」を考案し、また伝統的なフラメンコのしきたりを拒む共同体にもなりました。カマロンは、結婚して自分の家族を持つまで、厳格な父親像であるアントニオ サンチェスの下を離れませんでした。

フラメンコ界、そして 2 人の男の間の最高傑作が、アルバム「La Leyenda del Tiempo」です。2 人は 1981 年、ペペ デ ルシア作詞のタンゴ コレクションのアルバム「Como el Agua」で再びコラボしています。

彼らのアーティストとしての拠点は、ヴィンテージ デザインの初期のアルバムから、即興でレコーディングしたアルバム、そして「Potro de Rabia y Miel」(1992 年、ホセが亡くなるわずか数日前にリリース)まで使用した、レコーディング スタジオでした。一緒のときも、他のミュージシャンとの競演のときも、2 人はフランメンコ音楽の顔をずっと変えてきました。彼らの友人であるホセ ルイス マリンはこれを、ウーラノスとサターンの同盟、と表現しています。

カタツムリの道
10 代の頃の米国巡業以来ずっと、パコは母国を拠点としていました。彼の名は世界中のさまざまな言語で書かれていますが、彼の音楽に翻訳は不要でした。「私はいつもカタツムリのように、家を背負って旅をしてるんだ。そう、その家とはアルヘシラスだよ」と、同郷の友人であるホアン カサルに打ち明けています。しかし、彼の音楽の拠点は、ウィーンのオペラハウスから東京の古い繁華街にナナが開いた小さなフラメンコバーまで、全世界でした。「日本とアメリカでは、フラメンコは昔から高く評価されていたんだ。そして今では、ありがたいことに、ヨーロッパや他の国々でも大切にされている。フラメンコ音楽が演奏されたことなどない街にも行ったな。」パコは、メキシコ沿岸、ユカタン半島のカンクンにほど近い場所にちょっとした家を持っていました。まさに、フランシスコ サンチェスに戻ることができる隠れ家です。亡くなったときもその場所でした。

コルドバのギター コンテストでソリストとして優勝し、フランスでフラメンコ ダンサーのアントニ ガデスとともに大成功を収める前年の 1967 年、ペドロ イトゥラルデとともにベルリン ジャズ フェスティバルにギタリストとして参加しました。イトゥラルデとは 2 枚のアルバムもリリースしました(収録されている「フラメンコ ジャズ」では、パコ デ アンテケーラもギターを演奏しています)。パコ デ ルシアは、ペドロ ルイ ブラス率いるグループ「Dolores」とのコラボを通して再びジャズとのかかわりに力を入れるようになります。Dolores にはほかに、ホルヘ パルドや、後にセクステットの主要メンバーとなるカルレス ベナベントといったメンバーもいました。音楽の力と運命は、彼をジョン マクラフリンやチック コリアとも引き合わせました。

スペインの色合い

俗に言う「スペインの色合い」はすでにジャズ界に存在し、そのサウンドを独自のものにしたのはマイルス デイビスです。しかし、2 つの音楽スタイルを見事に融合させたのはパコの作品、特に、ジョン マクラフリン、ラリー コリエル、アル ディメオラや、チック コリア、ウィントン マルサリスなどの多くのアーティストとのコンサートや相次ぐレコーディングの成果だといえます。スタンダードのアレンジや幅広く知られたメロディーから即興で演奏することを彼らから教わったのでした。後年、パコは学んだテクニックをフラメンコの世界に取り入れることになります。

オン ザ フェンス
彼の音楽はスペイン民主化のサウンドトラックになりました。1973 年、「Fuente y Cauda」のレコーディングを行いました。ルンバ「Entre Dos Aguas」(英語のタイトル: On the Fence)が収録された画期的なアルバムです。この成功により、彼はトップ 40 にもランクインし、スペイン国営テレビ局で自分の番組を持つまでになりました。1976 年、スペインがフランコ将軍の死去と新しい自由との折り合いを付けていたころ、パコは「Almoraima」をリリースしました。アルベルト ガルシア レイエスは「フラメンコ ギターの世界にとっては紛れもなく革命的なアルバムだが、実は、単に両方のジャンルをこれまでになく深く掘り下げた 1 枚である。実際、このアルバムはこれらのジャンルの限界を完全に超越している。パコのターニング ポイントであり、結果的に、フラメンコのターニング ポイントでもあった」と述べています。また、エミリオ デ ディエゴは、自分の立場を政治的にどう定義するかと質問されたとき、ホセ マヌエル ガンボラとファウスティノ ヌニェスに、パコ デ ルシアがスペインのテレビ番組で言った答えを紹介しました。「私がわかるのは音楽だけ。ギタリストの間では、左が考えて右が行動する、って言ってるよ。」マドリッドのメイン ストリートであるグラン ヴィアで彼が極右に暴行されたのは、その数か月後のことです。スペインも「オン ザ フェンス」、つまり立場を決めかねていたのでした。

王立劇場でフラメンコ

1975 年、当時のパコのマネージャーであるヘスス キンテロは、彼を王立劇場に立たせようと画策していました。スペインのクラシック音楽の中心でフラメンコが主催されたことはこれまでなかったのです。「パコ デ ルシアはこうした輝かしい場所で演奏することを誇りに思うべきだ、と多くの人が考えているだろう」とフェリクス グランデは書いています。「しかし、この輝かしい場所こそが、このアンダルシアの音楽、過去、現在、そして世界の音楽を主催する光栄に浴するのだ、とも考えなければならない。」アンドレス セゴビアは、1978 年のアルバム「Paco de Lucía interpreta a Manuel de Falla」の後、パコの覇権に疑問を持ったのですが、パコはその件に関してはっきりした意見を持っていました。「クラシック音楽の世界に口を挟もうなんて気は毛頭ないんだよ。僕がやろうとしたのは、ファラの音楽をそのルーツに戻すことだったんだ。」同様のことは、1991 年、ホアン マヌエル カニサレスとパコの甥のホセ マリ バンデラのギター演奏による、ホアキン ロドリーゴの「アランフェス協奏曲」と、イサーク アルベニスの組曲「イベリア」でも起きました。

セクステットでのツアー

パコはジャズ ミュージシャンとして自分のグループを結成し、1980 年にツアーを開始しました。1981 年には、「Yo Sólo Quiero Caminar」というシンボリックなタイトル(「僕はただ歩きたいだけ」という意味)のファースト アルバムをリリースしました。オリジナル メンバーは、兄であるラモンとペペ、ベースシトのカルレス ベナベント、そして、ペルー発祥の「カホン」(木製の打楽器)をフラメンコのシーンに取り入れた打楽器奏者のルベン ダンタスでした。17 年間にわたり、エル グリオなどのフラメンコ ダンサー、ドゥケンデ、ラファエル デ ウトレラなどのフランメンコ歌手、パコの甥のホセ マリア バンデラなどのギタリストを含め、他にも多くのアーティストが門をくぐりました。こうしたアーティストとともに、彼のレコーディングは円熟期を迎えます。この間の代表作には、「Siroco」、「Ziryab」などのアルバムや、陰鬱な哀しみの「Luzía」、歓喜の「Live in America」などがあります。

哀しみのギター
アルバム「Luzía」はパコのカタルシスの手段でした。それは、両親の他界、妹マリアの早世、そして親友のカマロン デ ラ イスラの死去がもたらした哀しみへの反応でした。家族の死による心の痛みが簡単に消えることはありませんでした。また、カマロンの死には、パコ デ ルシアが亡くなった友人に当然支払われるべきロイヤリティを要求したという、腹立たしく、下劣で、根拠のない噂が付きまといました。数十年にわたり、SGAE(Spanish Society of Authors, Composers, and Publishers)、フラメンコの学生や、フラメンコのアーティストの反論があったにもかかわらず、その中傷は彼の評判に汚点を残し続けました。パコは数か月間演奏せず、何年もかけてその哀しみを癒す声を探し続けました。フラメンコの民族音楽界が名手の 1 人を失っただけでなく、パコもソウルメイトを失ったのです。この哀しみから生まれたのが、彼自身の声による、「セギディーリャ」(「Luzía」(同名アルバムに収録))での哀愁を帯びた叫びです。この哀しみから生まれたのが、カマロンと名づけられた「ロンデーニャ」の静まりかえった沈黙なのです。
俳優とキャラクター
彼は子供の頃に、兄のペペ、ダンサーのアントニオとともに映画に初出演しました。それは、マラガにあるネルハの洞窟を舞台とする映画でした。その後、ホセ ルイス ボラウの「La Sabina」(1978)やスティーヴン フリアーズの「The Hit(邦題: If もしも....)」(1994)でサウンドトラックを作曲し、映画「Don Juan de Marco(邦題: ドンファン)」では主題歌でブライアン アダムスとの共演を果たしました。しかし、映画俳優としての初めての大ブレイクは、カルロス サウラの「Carmen(邦題: カルメン)」(1985)です。友人であるアントニオ ガデス主演のこの映画で、彼は自分自身を演じました。カルロス サウナとプロデューサーのホアン レブロンとともに撮った映画「Sevillanas」(1990)では、同胞のマノロ サンルーカルとともに出演しています。彼らはその後、「Flamenco」と「Flamenco, Flamenco」でも共演しました。ダニエル ヘルナンデス監督、パブロ ユソン製作によるドキュメンタリー映画「Francisco Sánchez, Paco de Lucía」では主演を務めました。パコがこの世を去る直前の 2014 年始めには、息子のクーロ サンチェスがドキュメンタリー映画「Paco de Lucía, La Búsqueda(邦題: パコ デ ルシア 灼熱のギタリスト)」の編集を終えています(この映画はその後、ゴヤ賞を受賞しました)。また、ハイメ チャバリ監督の映画「Camarón」(2005)では、ラウル ロカモラという架空の人物の役でも出演しています。

魂への窓

ダヴィド ザフラ、バスケス デ ソラ、コリータなど、多くの画家、イラストレーター、写真家が、パコ デ ルシアの魅力あふれる風貌を描きました。1970 年代のスペインでのリベラルなロングロック スタイルや、その後、髪の毛が薄くなり始めたころの容貌の移り変わり。しかし、彼の顔はその魂への窓でした。ホセ ラマルカから未亡人、バグリエラ カンセコまで、多くの写真家がそれを写真に収めています。パコはこう残しています、「年を重ねるほど、人は醜くなるだけでなく、賢くなるものだね」と。

音楽の博士
名声と人気は瞬く間に生まれ、コンデ ブラザーズ、ペペ ロメロ、トニー モラレス、レスター デボウとギターで共演すると、自然と後ろからついてきましたが、評論家と協会のいずれからも認知されるには時間がかかりました。アンダルシア、アルヘシラス、カディス自治区の黄金の子、パコが、カディス大学から名誉博士号を授与されたのは 2004 年のことで(アイーダ アグラソは彼を「ギターの博士」と呼びました)、その後、アメリカのバークレー校からも名誉博士号を授与されます。アンダルシア評議会からは「ラ ニーニャ デ ロス ペイネス」賞を授与され、また(ラテン グラミー賞ではなく)グラミー賞も獲得しました。アストゥリアス皇太子賞を受けた初めてのフラメンコ アーティストでもあります。彼の静かな故郷、アルヘシラスには、彼のすばらしい銅像が建てられました。パコの墓を飾る手も、この銅像の制作者ナチョ ファルゲラスによるものです。

アーティストよりも立派な人

パコがアルバム「Luzía」や「Cositas Buenas」で歌を歌うと、その喝采は、ルーベン ブラデス、ジャヴァン、パット メセニーなど、さまざまなアーティストの耳に届きました。このことは、カルロス サンタナ、ロス マリスメニョス、セラート、オート、友人のアレハンドロ サンス(サンスが子供だった頃、ギターをプレゼントするという約束もしました)など、他のジャンルのアーティストとのこれ以降の彼の音楽活動に大いに役立ったに違いありません。日々の生活では、文学、映画、そして冗談を楽しみました。これは、ウエルバ自治区で衣装を着ているパコです。トマティートはパコをこう表現しています。「彼はアーティストであるより立派な人なんだ、実に偉大なアーティストだね。」

彼は名声を嫌い、スピーチをしなければならないことを嫌いましたが、書くことには几帳面で、サッカーとアンダーウォーター フィッシングを愛しました。子供は、最初の妻であるカシルダ バレラとの間に 3 人、未亡人となったカブリエラ カンセコとの間に 2 人います。当時はまだシャンパンと呼ばれていたカバを宣伝し、兄のラモンと友人のファン エストラダと共同で、さまざまな種類のギターを販売しました。友人であり、フラメンコ ダンサーであるサラ バラスとは、マドリッドまでオリンピックの聖火も運びました。パコを扱ったウェブサイトは数百あり、彼のウェブサイト www.pacodelucia.org にはメンバー同士の活発なフォーラムがあります。

パコ: 論評
フェリックス グランデが、フラメンコ ギター界でパコ デ ルシアの右に出るものはいない、と初めて強く主張したのは、1978 年の書籍『Memoria del Flamenco(フラメンコのメモリー)』です。グランデはその後 2000 年に『Paco de Lucía y Camarón de la Isla(パコ デ ルシアとカマロン デ ラ イスラ)』を編集しています。パコの初めての伝記を執筆したのは、ドン ポーレン(ディエゴ デル ガストルの熱狂的なアメリカ人ファン)で、自身の書籍に『El Plan Maestro(マスター プラン)』という副題を付けました。1994 年には、フアン ホセ テレスが『Paco de Lucía, Retrato de Familia con Guitarra(パコ デ ルシア、家族とギターの肖像画)』を執筆し、その 10 年後には『Paco de Lucía, En Vivo(パコ デ ルシア、ライブ)』、そしてパコの死去後の 2014 年、最後に『Paco de Lucía, el Hijo de la Portuguesa(パコ デ ルシア、ポルトガル女性の息子)』を出版しました。1999 年には、パコ セビリア著『Paco de Lucía, a New Tradition for the Flamenco Guitar(パコ デ ルシア、フラメンコ ギターの新たな伝統)』が米国で英語で出版されました

また、2004 年には、ダイアナ ペレス カストディ著の『Paco de Lucía, la Evolución del Flamenco a Través de sus Rumbas(パコ デ ルシア、ルンバからのフラメンコの進化)』が、彼女の論文の要約として出版されました。スペインで読まれた初めての大学の研究論文です。その後、全作品集がユニバーサルから出版されました。ここには、ホセ マヌエル ガンボア著のミニ伝記やファウスティノ ヌネスによる人気のオーディオ ガイドが収録されています

神の死
パコ デ ルシアは王立劇場に復帰しましたが、それは彼が好むところではありませんでした。2011 年、UNESCO 無形文化遺産へのフラメンコの登録を目指した協会のキャンペーンを支援するためのものだったのです。常にフラメンコのアーティストであると同時に、世界的な影響力もあったパコでした。人生の終わりに近づくなか、キューバへの旅で、彼は島のミュージシャンとコラボレーションする機会を得ました。彼の最後のスタジオ アルバムのタイトルは「Canción Andaluza」。友人のマリフェ デ トリアナを追悼する民族音楽のトリビュートです。彼女の死はパコに深い影響を与えました。このアルバムには、パコが過去にデュエットした、パリータ、オスカー デ レオン、エストレラ モレンテの声など、多くのコラボレーションが収録されています。それは、ギターだけでなく、さまざまな弦楽器を演奏した個人的な仕事をアルバムに収めたようなものでした。的確で、抑制され、ポエティックで、ほぼ最小限のビートによる「Ojos Verdes」の詩に、声は不要でした。

2014 年 2 月 26 日、メキシコのキンタナ ロー州カンクンにある、ガブリエラ カンセコが搬送した病院でパコは亡くなりました。カリブ海の町シュプハの隣にある、トゥルム近くのビーチで小さい子供たちと遊んでいるときに気分が悪くなったのです。家族はキューバから戻ったところで、彼は友人であるフェリックス グランデが亡くなったことを受けて禁煙したばかりでした。彼の心臓が止まると、それと一緒に音楽界の心臓も止まりました。

パコは心臓を患っていましたが、ルーツを忘れることはありませんでした。亡くなる前年の夏、末っ子をアルヘシラスにある小さな墓地に連れていき、両親、兄のラモン、妹のマリアと一緒に、そこに埋葬するよう頼みました。そのわずか 3 か月後、5 月に兄のアントニオが亡くなったとき、その兄もここに散骨されました。マヌエル ボホルケスは、パコはいつも天才と思われていたが、その理由を説明できる人はほとんどいない、という思いを強くしています。「パコは、いずれにせよ、自分の演奏は天才だと説明できなかったね、だって自分のことをほとんど語らない人だったから。彼は、自分が神様だってことはわかっていたけど、引っ込み思案で、慎ましく、恥ずかしがりやの神様だったんだ。」そう、彼は自分のことを、人生や歴史という長い川を流れる 1 枚の葉だと考えていたのでした。

Instituto Andaluz del Flamenco
提供: ストーリー

Instituto Andaluz del Flamenco
Agencia Andaluza de Instituciones Culturales
Consejería de Cultura
JUNTA DE ANDALUCÍA

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