仏と神のすがた

京都国立博物館

仏と神のすがた
インドで誕生した仏教は、中国を通じ、日本へ伝わります。日本では在来の神々との習合がすすみ、独自の信仰が発展しました。京都国立博物館の所蔵品を通して、アジアから日本へと至る、さまざまな仏や神の姿をご覧ください。

如来頭部(2~3世紀)

本像が製作されたパキスタンのガンダーラ(現在のペシャワール地方)は、インドのマトゥラーとならんで仏像誕生の地として有名である。マトゥラーの仏像がインド的な顔つきや姿をしているのに対して、ガンダーラのものはヘレニズム文化の影響を受け、ギリシア彫刻のように顔は彫りが深く、衣が厚手にあらわされるという特徴がある。

ガンダーラでは古来より仏教が信仰されていたが、そこにギリシア系の文化をもつ人々が移住してきた結果、紀元1~2世紀(仏像の発生時期についてはいくつかの説があり、今も論争となっている)から5世紀頃まで仏像が製作された。その歴史のなかで3世紀前半ころまでが最盛期であったとされ、時代が降ると彫りに明瞭さを欠いてちいさくまとまったような表現となる。

本像は首以下を失った頭部像だが、もちいられる石材は良質である。目鼻立ちも明瞭で頭髪の毛筋も鋭く彫り刻まれており、2世紀後半から3世紀はじめ頃のガンダーラ盛期の造像例と考えられる。この時期のガンダーラの如来像は、わが国の如来でなじみ深い螺髪(らほつ)(旋毛)ではなく、このようにウェーブがかかった髪にあらわされる。

如来立像(4世紀)

仏教は中国に、遅くとも紀元1世紀の後漢時代初頭には伝えられていたが、当初から広く信仰されたわけではなかった。そこまでさかのぼる仏像の遺例は揺銭樹(ようせんじゅ)や墓室の壁面にあらわされたものなど、わずかな例がしられるだけである。仏教が広く流行し、仏像が盛んに製作されるようになるのは南北朝時代の5世紀以降のことだが、それに先がけ、4世紀の東晋あるいは十六国時代の製作と考えられる古様な金銅仏が複数確認されている。

その多くは古式金銅仏と称される如来の坐像だが、本像は珍しく立像である。蓮の花をかたどった台座は本体と別に作り、そこに本体を差し込むが、現状ではしっかりとはまっていて抜けない。台座側面に「造像九躯」と読める刻銘がある。螺髪(らほつ)ではなく結い上げた頭髪に毛筋を刻み、明瞭にあらわされた両眼や太めの口ひげなど、その容貌にはガンダーラ風を色濃く残し、通肩(両肩を覆う着方)に身につけた衣もインド風である。これらの特徴から製作は4世紀までさかのぼると考えられる。

ただし近年の研究で、これらインドないしはガンダーラ風を強く残した金銅仏には、南北朝時代以降、古式にもとづいて製作されたものが含まれている可能性も指摘されている。したがって今後研究が進めば、製作年代に関して見直されることになるのかもしれない。

阿弥陀三尊仏龕(659年)

中国で仏教がとくに盛んとなるのは南北朝時代以降のことだが、唐時代にもひきつづいて仏教が篤く信仰され、それにともない仏像の製作も盛んであった。南北朝時代の仏像は次第に中国的なものへと変化していき、容貌や着衣も漢民族風になっていった。それに対してこの時代は、玄奘(げんじょう)や義浄(ぎじょう)をはじめとするインドへ求法の旅に出る中国僧や、インド・西域(さいいき)からの渡来僧も多く、仏像の様式もインドのグプタ期やポスト・グプタ期の影響を受け、現実感のあるものへと変化した。その影響は日本にもおよび、天平彫刻として花開くこととなる。

本仏龕は正面から右側面に刻まれた銘文によると、顕慶4年(659)に製作され、尊名は阿弥陀三尊であることがわかる。阿弥陀といえば親指と他指を捻じて定印(じょういん)や来迎印(らいごういん)を結ぶ姿をまずは連想するが、本像は中尊の阿弥陀如来が左手を地に付けた触地印(そくちいん)(降魔印(ごうまいん))を結んでいる。

通常このかたちは釈迦が悟りを得るために修行していたさいに、悪魔をしりぞけるためにおこなった仕草に由来するもので、初唐期には阿弥陀の印相がまだ定型化していなかったことをしめすものとしても興味深い。

阿弥陀如来坐像(11世紀)

平安時代後期には浄土教の流行とともに、人びとが阿弥陀浄土への往生(おうじょう)を願う心も、より熱をおびる。その結果、阿弥陀の浄土を現世で身近に感じるための拠りどころとして、阿弥陀像が多数つくられるようになる。そのような時代にあって貴紳たちが、これぞまさしく仏の真の姿であると賞賛したのが、11世紀前半から中ごろにかけて活躍した、かの大仏師定朝(じょうちょう)によって製作された木彫像である。これらを称して、定朝様(じょうちょうよう)といい、100年以上にわたって一世を風靡(ふうび)した。

本像も定朝様の阿弥陀だが、比較的おおきな木材を寄せてつくる技法は古様である。まだ定型化していない伸びやかな体躯(たいく)の表現も、定朝の高弟長勢(ちょうせい)の作風を思わせるものがあり、本像の製作も11世紀後半までさかのぼるかと考えられる。

かつて京都・久御山町の雙栗(さくり)神社の神宮寺である薬蓮寺(やくれんじ)に安置されていた本像だが、明治の神仏分離でおなじく久御山町の西林寺へと移された。ところが昭和36年の第二室戸台風で同寺は大きな被害を受け、本像も大きく破損してしまう。その後、幸いにもほぼ元の姿に修復することができ、京都国立博物館へと安住の地を移すこととなった。

釈迦金館出現図(11世紀)


涅槃(ねはん)に入った釈迦が、入棺後に遅れて到着した母の摩耶夫人(まやぶにん)の嘆きを静めるため、棺より起きあがり説法した場面を描いたもの。キリストの再生に似た珍しい主題だが中国に例があり、『摩訶摩耶経(まかまやきょう)』等が典拠である。『摩訶摩耶経』は中国撰述の偽経(ぎきょう)とされるが、本主題は釈迦の親孝行を強調することから、対立する儒教の批判をかわす仏教側の意図があったとされる。

なお、本図の実制作年代は11世紀後半と考えられるが、その原画は中国の10世紀頃に遡ると推測されている。つまり、11世紀末の白河院政開始以降に再び萌しはじめた中国への強い憧れによって、過去に日本に伝わった中国画にエキゾチズムを見いだして模したものと思われるのである。群衆ひしめくにぎやかな構図や太細によって表情を生み出す墨線などはオリジナルの中国画に由来するものと思われる反面、当時の日本の美意識を強く反映して華麗な色感を示す。

もと京都西郊(長岡京市)の長法寺(ちょうほうじ)に伝来したが、戦後、最後の大茶人とも称された松永安左ヱ門(号は耳庵(じあん))の手に渡った。氏の没後、昭和54年(1979)の財団法人松永記念館解散に伴い、国に寄贈された。

経筒外容器(1153年)

経塚は弥勒菩薩が如来として下生する遥かな未来に向けて法華経などの経典を保存するための小さな塚であった。平安時代末の12世紀頃に盛んに造営された。法華経を入れる銅製の筒を経筒というが、その経筒を納めるために焼き物の甕や壺を用いることが多い。この作品は軟質に焼かれた土製筒形の経筒外容器である。内部には青銅経筒が納められている。

この外容器の特徴は外面の四方に天部像が4躯陰刻されていることである。持国天・増長天・広目天・多聞天という四天王像とみられる。仏像図像として貴重な遺物である。天部像の間には「紀武國」「藤原氏女」「仁平三年」「九月廿三日」の銘文が陰刻されている。仁平3年は西暦1153年。平清盛が家督を継いで平家の総帥となった年である。

この経筒外容器は平安京の周辺に営まれた経塚から出土したものと推定される。源平の争乱が間近に迫っていた時代だ。世情の不安感が経塚造営の背景にあったとされる。

千手観音香合仏(12世紀)

身と蓋からなる印籠蓋(いんろうぶた)づくりの円形の仏龕(ぶつがん)で、そのかたちが香合に似ることから香合仏とも呼ばれる。僧などが旅行の際に携帯し、礼拝するためのものであったかと想像される。身、蓋ともに白檀(びゃくだん)から彫りだされており、作られた当初は、開くたびによい香りが漂ったことだろう。

身には坐像の千手観音を彫出する。ただし実際には千本の腕を彫っているわけではなく、胸前で合掌する手(これを真手という)に加えて、40本の脇手によって千手をあらわしている。一方の蓋には、上方に横笛と笙、中央に雲に乗った火舎香炉(かしゃこうろ)を置き、その左右に女神形の功徳天(くどくてん)と老相の婆藪仙(ばすうせん)を、いずれも高浮彫であらわす。功徳天は吉祥天のこととも弁財天のことともいい、婆藪仙はおそらくインドのシヴァ神に源流を持つ仙人で、修行者の姿にあらわされる。本来はインドの神々であったが仏教の守護神として取り入れられ、ここでは観音の慈悲を象徴するものとしてあらわされている。

本仏龕の温和な作風は平安時代後期の特徴を示すが、伸びやかに表現された身体には鎌倉時代の写実的な風も感じられ、製作年代はその過渡期である12世紀末頃かと考えられる。

山越阿弥陀図(13世紀)

山越阿弥陀とは、山のかなたに影現し、往生者を迎える阿弥陀の姿を描いたもの。日本特有の主題であり、密教の月輪観(がちりんかん)(観想というイメージトレーニングの一種)をベースに、仏の満月の尊容のイメージを重ねたのが起源と思われる。そのため、正面性の強い構図が原型と考えられるが、本図はより絵画的な情景描写を特徴としており、山間から今まさにこちらへ来迎しようかという場面を斜側面観で描く。

「やまごえ」なのか「やまごし」なのか悩ましいが、山越阿弥陀の成立には日本古来の山上他界観も影響しており、「やまごし」の方がよいと考える。つまり、山の上の他界に向かう死者の魂を待ち受ける阿弥陀の姿と考えるわけである。その意味では、本図のような表現は本来の意味がやや薄れてきている印象を受ける。


なお、巧妙に修理されているが、阿弥陀の胸と右掌には画絹の欠失があり、五色の糸が取り付けられていたと考えられており、実際に死にゆく者の枕頭で使用されていた可能性が高い。朝日新聞創立者の一人、上野理一の旧蔵品で、戦前から名画の誉れ高かった。

興福寺曼荼羅図(13世紀)

最上部に奈良の春日社及び若宮社の社殿を描き、下部一杯に興福寺の諸堂に安置される諸仏像を図示したもの。春日社は藤原氏の氏神、興福寺は藤原氏寺であり、本図は興福寺を主体に描くが、春日宮曼荼羅の一種と見なすべきものである。

本図は、治承4年(1180)の年末に源平の争乱によって焼失した興福寺の罹災(りさい)以前の諸仏像の姿を伝える唯一の作品とする説があり、興福寺に残る多数の現存仏像を考える上で重要な史料的価値を持つことから名高い。

仏身には裏から金箔を押し一部では表面にも金泥を塗るように金色の使い分けが見られ、細部まで神経の行き届いた彩色を施している。また、肉眼では判別困難なほど細密な描写を特色としている。これらの絵画様式から平安時代末期から鎌倉時代初期の制作になると考えられ、治承の兵火直前もしくは直後の作品と見られる。但し、描かれた諸像には兵火後の復興仏像の姿が混じているとする説もあり、まだ謎は残る。
京都日本画壇の巨星であった竹内栖鳳(たけうちせいほう)の旧蔵品。

閻魔天曼荼羅(13世紀)

台密系統の図像集である『阿裟縛鈔(あさばしょう)』に「十九位曼荼羅」とあるように、閻魔天を含めた十九尊で構成される。加えて、『阿裟縛鈔』では園城寺の鳥羽僧正覚猷(かくゆう)(1053~1140)が鳥羽院(1103~1156)に奉じたものとの所伝を載せる。

この図像が天台宗寺門派で流布した事実は認めてもよく、伝承筆者も本図像の成立時期と近く蓋然性が高い。閻魔の下に各々脇侍(きょうじ)を従えた太山府君(たいざんふくん)と五道大神(ごどうだいしん)という中国の神格を描く。とくに、太(泰)山府君は、中国の泰山地獄思想と結びついている。また、閻魔天も密教系統の菩薩相ではなく、忿怒相をとり、これも中国の冥府信仰の影響を受け、「閻魔天」から「閻魔王」へと変質していることを示す。

中国の冥府地獄信仰は奈良時代から日本に入ってきていたが、まだまだ頭でっかちな理解で在来の来世観が幅をきかせていた。しかし、この平安時代後期から、浄土教とこの中国説話とを血肉化して今日的な来世観へと変質するに至った。本図は、その過渡期的な特徴をよく示している。朝日新聞社創立者の一人、村山龍平の旧蔵品。

男山八幡宮曼荼羅(13~14世紀)

山城国綴喜(つづき)郡(京都府八幡市)にある石清水八幡宮社頭の光景を描いた宮曼荼羅(みやまんだら)である。男山とは同宮所在の鳩ケ峯(はとがみね)の別称(標高約143メートル)で、古来よりその独特の姿形が愛され歌枕としても知られている。

中央に本殿三神と摂社四神を本地仏(ほんじぶつ)の姿で描く。上段には阿弥陀(中御前(なかごぜん))・観音(東御前)・勢至(西御前)の三尊を安置し、その下方には石畳をはさんで向かって左の上から阿弥陀(武内社(たけうちしゃ))と勢至(高良社(こうらしゃ))、右の上から十一面観音(若宮社(わかみやしゃ))と普賢(若宮殿社(わかみやでんしゃ))を配している。

実景とはやや異なるが、参詣人や本殿屋根に神使(しんし)の鳩を描き、鎌倉時代末期の社頭の雰囲気を生き生きと伝えている。天正16年(1588)の軸裏修理銘には文明11年(1479)の修理銘が転記されており、これによると、本作は石清水八幡宮を氏神とする公卿の久我家が毎月11日に行われた八幡講の本尊として石清水八幡宮に寄進したものという。明治の元勲(げんくん)にして古美術品収集で知られた井上馨(いのうえかおる)の旧蔵品。

地蔵菩薩像(13世紀)


壬生(みぶ)狂言で知られる壬生寺(京都市中京区)の本尊を描いたもの。壬生寺本尊は壬生地蔵と言われ古来より名高く、鎌倉時代の木像が伝えられていたが、昭和37年に本堂と共に焼失してしまった。

本図は鎌倉時代後半の作で、その焼失前の本尊の姿を伝える貴重な遺品である。壬生地蔵は、本来このように背後に豪華な背障を背に半跏する珍しい姿で表され、錫杖と宝珠を手にしている。

なお、脇侍(きょうじ)を従える形式は類例がなく、向かって右脇侍は閻魔天(えんまてん)であり、左脇侍は堅牢地神(けんろうちしん)と推定されている。閻魔天は、地蔵と閻魔王とが同体であるという説に基づき、地神はインドにおける大地の神格化であり、地蔵信仰の母体となったものである。閻魔天も地天も密教での姿で表されている。

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