風景を描く

京都国立博物館

風景を描く
東洋画の主要な画題「山水」には、厳しい山海を描いたものもあれば、風光明媚な名所を表したものもあります。また、実景を写したものだけではなく、山や川を画面上で構築した架空の風景も描かれます。あるいは自国の土地であるのか、異国の風景であるのかなども問題です。風景表現の展開を追ってわかることは、描き方のスタイルだけでなく、人々の世界のとらえ方、外界とのかかわり方そのものが変化しているのだということです。

山水屏風(せんずいびょうぶ)(11世紀)

この屏風は、密教の灌頂(かんじょう)という儀式で使用されてきたもので、東寺に伝来していた。法会の威儀をととのえるために日常の室内調度の屏風を転用したのがはじまりである。12世紀になって灌頂が盛んになると、次第に法会の形式も完備し、そこで使用される屏風もこの画題に決まっていった。本図は、11世紀後半に遡ると考えられる最古作であり、王朝時代の調度品の実態がうかがえる。

画題はよくわかっていないが中国の故事に求めており、「唐絵(からえ)」ということになる。描写のスタイルは中国の唐時代に由来するものだが、中国画で感じる厳しさはあまりない。「金岡(かなおか)は山を畳むこと十五重、広高(ひろたか)は五六重也」(『雅兼卿記(まさかねきょうき』)とあるように、宮廷画家として活躍した巨勢(こせ)家においても、9世紀末に活躍した金岡に比べ、11世紀初頭に活躍した広高では、既に重々たる山岳を描くことは流行らなくなっており、本図もその流れで理解できる。こうした柔らかく穏やかなスタイルを洗練させたところに「国風文化」の真面目(しんめんぼく)がある。

山越阿弥陀図(13世紀)

山越阿弥陀とは、山のかなたに影現し、往生者を迎える阿弥陀の姿を描いたもの。日本特有の主題であり、密教の月輪観(がちりんかん)(観想というイメージトレーニングの一種)をベースに、仏の満月の尊容のイメージを重ねたのが起源と思われる。そのため、正面性の強い構図が原型と考えられるが、本図はより絵画的な情景描写を特徴としており、山間から今まさにこちらへ来迎しようかという場面を斜側面観で描く。

「やまごえ」なのか「やまごし」なのか悩ましいが、山越阿弥陀の成立には日本古来の山上他界観も影響しており、「やまごし」の方がよいと考える。つまり、山の上の他界に向かう死者の魂を待ち受ける阿弥陀の姿と考えるわけである。その意味では、本図のような表現は本来の意味がやや薄れてきている印象を受ける。

なお、巧妙に修理されているが、阿弥陀の胸と右掌には画絹の欠失があり、五色の糸が取り付けられていたと考えられており、実際に死にゆく者の枕頭で使用されていた可能性が高い。朝日新聞創立者の一人、上野理一の旧蔵品で、戦前から名画の誉れ高かった。

湖山小景図(15世紀)
松谿筆 翺之彗鳳賛

松谿(しょうけい)(生没年不詳)の伝歴は不明だが、画風や賛者の没年などから判断して、15世紀半ば頃を中心に活動した画僧であったと推測される。遺作には「布袋図」(京都国立博物館蔵)や「寒山拾得図」(徳川美術館蔵)などの道釈人物画もあるが、最も得意としたのは山水画であったようだ。

本図はその好例となるもので、明るい広々とした山水景観が絶妙な構図感覚とデリケートな筆遣いをもって見事に描出されている。随所に引かれた金泥の霞も効果的で、画面にいっそうの華やぎをもたらしているといえよう。彼の先輩格(あるいは師か)、周文(相国寺の僧で、室町幕府の御用絵師)の山水図が備えていた都会的(京都的)な雰囲気を一段と進展させ、磨き抜いたといった感じである。

賛者の翺之慧鳳(こうしえほう)(?~1465頃)は入明経験をもつ東福寺の僧で、雪舟あたりとも交流があった。この賛では、図の景観を彼が中国遊学の際に訪ねた杭州西湖の光景と重ね合わせている。

天橋立図(16世紀)
雪舟筆

文亀元年(1501)丹後を訪ねた際のスケッチをもとに描かれた、雪舟最晩年期の大作である。

図の中央には天橋立の白砂青松と文殊信仰で名高い智恩寺があらわされ、

その上方に阿蘇海を挟んで寺社の林立する府中の町並み、さらにその背後には巨大な山塊と観音霊場である成相寺の伽藍が配されている。

一方、橋立の下方には宮津湾が広がり、ちょうどそれを取り囲むように栗田(くんだ)半島の山並みがなだらかに横たわっている。

一見、実景そのままを写し取ったかのようなリアルな雰囲気があるが、実際は山を極端に高くあらわしたり、町並みを長く引き伸ばすなど大幅な変更が試みられている。また、図全体をかなり高所から捉えた構成になっているが、このようにみえる場所自体、実際は存在しないのである。橋立の威容をより効果的にみせるための工夫であったのだろう。筆遣いはいたって荒々しく、まさに一気呵成に仕上げた印象を受けるが、かえってそれが図に独特の躍動感や力強さをもたらしている。

真山水図(16世紀)
狩野元信筆

元信(1477~1559)は狩野派の初代・正信の長男で、同派の2代目。真・行・草(しん・ぎょう・そう)という3種類の画体方式を創始するとともに、己の影武者ともいうべき弟子を数多く養成することで、集団的な作画活動を可能ならしめた。と同時に、それまで大和絵系絵師たちの専門領域であった絵巻や風俗画、金碧画にも筆を染めるなど、狩野派に大いなる繁栄をもたらしたことが知られる。

本図はそんな元信の手になる山水画の好例で、真体手法によるところから「真山水図」と呼ばれている。破綻のない堅固な構成と細線を用いた丁寧な表現が際立っており、佳品の多い元信の山水図の中でも出色の出来映えを示す。

いかにもプロらしい仕事ぶりといえよう。仙台藩主・伊達家に伝来した。

九段錦図冊 第六図「蘆汀採菱図」(15世紀)
沈周筆

明時代の蘇州を代表する文人画家の一人、沈周(しんしゅう)(1427~1509)による淡彩の美しさが際立つ山水人物の画冊。「九段錦」と称される所以は、大小さまざまな9図を一冊の画帖に集めたことによる。

本冊は、清時代初期の高士奇(こうしき)の収蔵品目録『江邨銷夏録(こうそんしょうかろく)』(康熙32年(1693)自序)に著録されている。宋元の大家9名に託した倣古の作で、董其昌(とうきしょう)の跋が附いて、天下の名冊と喧伝された。ただし、現存するのは6図のみ。そのなかでも、第1図の「田家耕作図(でんかこうさくず)」と第6図の「蘆汀採菱図(ろていさいりょうず)」に見える小景物の描写が秀逸である。前者は、1人の男が青々とした初夏の畦道を駆け抜ける。尖筆による墨線は柔らかく精緻である。

九段錦図冊 第六図「蘆汀採菱図」(15世紀)
沈周筆

後者は、趙令穣(ちょうれいじょう)の小景図をふまえているが、水鳥のかわりに舟上から菱を採る仕女が朱と青で描かれている。水面にうかぶ蓮葉に加えられた極めて薄い緑とともに、淡彩を効果的にもちいる。題詩は沈周の師にあたる杜瓊(とけい)によるもので、成化7年(1471)の年記をもつ。

沈周は、字を啓南といい、石田、白石翁と号した。蘇州相城里の人で、生涯仕官しなかったが、詩書画三絶にして、蘇州を拠点とした呉派の領袖として知られた。
本冊は、清時代末期の官僚・端方(たんほう)が所有しており、大正年間に日本にもたらされたもの。

花隖夕陽図(1671年)
惲寿平筆

花鳥画の名手で清初六大家の惲寿平(うんじゅへい)(1633~1690)が描いた山水の作。柔らかな日差しが江南の水郷を包み込む夕暮れを、淡く巧みな賦彩によって印象的に表現した。「花隖夕陽」の「隖」は土手の意で、盛唐の詩人・厳維(げんい)が劉長慶(りゅうちょうけい)に贈った一節「柳塘春水漫、花隖夕陽遅」(「酬劉員外見寄」)に拠る。
筆者の惲寿平は江蘇毘陵(武進、現在の常州)の人。初名は格で、字の寿平で知られた。号は南田のほか白雲外史など。明の遺民(いみん)として苦酸を舐め、清廉をつらぬいた。

本図は、北宋初の詩画僧にして小景図の名手で知られた恵崇(えすう)の同名画巻に倣ったもの。題識にみえる唐半園(とうはんえん)(名は宇昭)は、惲寿平と同郷の武進の文人で書画収集家のこと。惲寿平は友人の王翬(おうき)とともに半園の邸宅に出入りし、その才をはぐくんだ。山水に秀でた王翬と親交を結び、第二手となることを恥じて花鳥画に専念したといわれる。しかし、本図のような淡彩の山水にも、カラリストたる惲寿平の天稟(てんぴん)がほとばしっている。

ちなみに、本図を慫慂(しょうよう)した澹菴とは、同郷の文人で、順治年間の進士である荘冏生(しょうけいせい)である。本図は、大正元年(1912)に日本へ亡命した清朝の遺臣・羅振玉(らしんぎょく)が携えてきた名品のひとつである。

霧島山登山図(姉乙女あて書簡のうち)(1866年)
坂本龍馬

坂本龍馬が土佐の姉乙女に出した手紙の一部に含まれる霧島山の絵とそれに続く部分である。慶応2年(1866)の正月、京都で薩長同盟の締結に尽力した龍馬だったが、1月24日の未明に伏見寺田屋において幕府役人の襲撃を受けて負傷した。なんとか逃げ延びた龍馬は薩摩藩の西郷隆盛らの勧めで傷養生のため鹿児島へと向かった。霧島山麓の温泉地でゆっくり保養したのち、3月の末には妻のお龍とともに標高1574mの高千穂峰(たかちほのみね)に登山したのだ。

その様子を姉に絵入りで知らせたものである。山の絵には朱書で登山したルートが示され、どんな様子だったかが墨書で細かく記されている。山道があまりに険しいので「(お龍の)手をひいて登った」と記しているのが微笑ましい。さらに頂上では天逆鉾(あまのさかほこ)を見ている。この時の龍馬とお龍の鹿児島旅行が日本で初の新婚旅行であったとされる。

登山図の続きには西郷隆盛の人柄に関する記述がある。京都国立博物館には多数の坂本龍馬関係資料が収蔵されており、重要文化財に指定されている。

宋法山水図(1922年)
斉白石筆

近代中国を代表する画家の一人である斉白石(せいはくせき)(1864~1957)の筆による山水図。白石といえば、水墨淡彩による写意の花卉や草虫の小品が知られているが、本図のような大幅の山水は珍しい。斉白石は名を璜(こう)といい、白石の号で知られる。湖南湘潭の人。大工や指物師などをしながら絵を学び、光緒28年(1902)から7年の間、陝西、江西、広東、広西などを5回に分けて旅した。その後、北京に居を定めたが、白石の画が評価されたのは、友人の陳師曾(ちんしそう)の勧めで画風を変えてからのことである。

本図は、白石の画名が高まりはじめた頃の作で、広西にある景勝地・桂林を訪れたときの記憶をもとに描いたもの。柱状の山峰が幾重にも連なる奇観を、水墨の濃淡と肥痩のない均一な筆線をもちいて、大画面の構図に写し取った。同年の作に「背江村屋図」(京都国立博物館須磨コレクション)があり、白石はこの時期に集中して宋人の画法による山水図を試みている。ただし、本図は特定の画家に倣うのではなく、宋代山水の気風を当代風に解釈しなおした独自の作品と見るべきであろう。

本図は、白石と親交のあった外交官・須磨弥吉郎(すまやきちろう)の収集品。白石は須磨に本図を「一生一大の大力作」(須磨ノート「斉璜白石翁」)であると語ったという。

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