400年にわたる人の手を尽くすという伝統と革新

現代、これほど人の手を尽くす焼物は、おそらく、他にない。―素地と絵付け、そして彫刻の技が調和して生み出される「薩摩錦手」は、貫入のある白色の陶器「白薩摩」の一種。超絶の技でありながら奥ゆかしく、やさしさのある凛とした焼物。それが、白薩摩です。
白薩摩の素地は、表面が細やかなヒビで覆われています。このヒビが、さまざまな角度から光を受け止めて、温かみのある象牙色の肌に奥深さを与えます。

純金を用いた金彩と、赤、緑、黄、青などの色絵の具で、ときに緻密に、ときにおおらかに、巧みに描き分けられる絵模様。

ひとつひとつ、人の手で形づくられていく、素地に彫られた繊細な文様。金工品のように整然として、金工品にないぬくもりを醸すのは、それが人の手で彫られたからなのです。素地と絵付け、そして彫刻が調和した美しさ。それが薩摩錦手に象徴される、白薩摩が育んできた固有の美です。
白薩摩は、今から400年前、薩摩焼が発祥しておよそ20年後に生まれました。鹿児島の火山性の地質を、温泉の熱水が風化させてできた白土が、白薩摩の原料です。“白い焼物をつくれ”という藩命に応えて白土を発見したのは、薩摩焼を誕生させた、朝鮮半島から渡来した陶工たちでした。彼らは、鹿児島の地に“釉薬のかかった焼物”という海外の先進技術をもたらしたのでした。
有田焼のような磁器原料に恵まれず、鹿児島でもわずかな場所でしか採れない貴重な白土を用いる白薩摩は、藩の御用品となり大切に育まれてきました。そして、微細なヒビに覆われた、温かみのある象牙色へとたどり着いたのです。
白薩摩の中でも、白一色で仕上げられた精緻なつくりの高級品は、一名「白焼」とも呼ばれ、極めて格の高い焼物でした。そんな白薩摩の素地に、さらに金彩と赤、緑、黄、紫などの色絵の具によって、鮮やかな絵模様を上絵付けする錦手技法が確立するのは、18世紀中頃のことです。当時は、将軍家や諸大名への贈答品として、藩主のみが取り扱うことのできる高貴な焼物でした。薩摩錦手は、江戸時代を通して、庶民が目にすることすらできない焼物だったのです。
19世紀に入ると、イギリスやフランスなどの西欧列強が日本に来航するようになります。こうした外圧への危機感から、薩摩藩主島津斉彬(在籍1851-58)は、全国に先駆けて西欧の先進技術を取り入れた近代化「集成館事業」を推し進めました。海外との交易の時代がやってくることを予測していた斉彬は、薩摩焼を貿易品に育てるため、色絵の具の改良に取り組みました。それまで輸入に頼っていた原料(洋絵の具)の国産に成功したほか、金・銀・紫の製法を改良し、色彩は格段に鮮明になったと言われます。
海外に視野を向けた取り組みは後に実を結びます。慶応3(1867)年の第2回パリ万博において、薩摩藩が出品した薩摩錦手が人気を博します。続いて明治6(1873)年、明治政府が威信をかけて参加したウィーン万博で、十二代沈壽官が手がけた錦手大花瓶が大きな賞賛を得たことで、薩摩錦手の国際商品としての評価は定まりました。19世紀後半、折からのジャポニスムブームにのって、薩摩錦手は世界の人々が求める輸出品となっていったのです。
沈壽官窯に伝わる、上絵付け前の白薩摩素地。明治時代初期には,装飾的な大型製品が海外で特に好まれました。
幕藩体制が崩壊すると、藩営の御用窯は民営へと転換し、それまで御用品に制限されてきた薩摩錦手は、誰もが製作し、誰もが手にすることのできる焼物へと転換しました。こうして到来した民営の時代に、先陣をきったのが十二代沈壽官でした。沈壽官は、明治8(1875)年に玉光山(ぎょっこうざん)陶器製造場(現 沈壽官窯)を創業し、藩の保護を失った陶工達の受け皿となりました。
創業の翌年には早くも東京へ向けて出荷し、明治13年には東京支店を構え、海外貿易の場で活躍しました。明治35年頃の沈壽官窯の販路は、ヨーロッパ、ロシア、アメリカ、オーストラリア、東南アジアにまで広がっています。また、国内外で開催される博覧会で受賞を重ね、鹿児島における薩摩焼生産を牽引しました。明治中頃からは輸出生産に参入する窯元が増え、東郷壽勝、鮫島訓石、慶田政太郎、隈元金六らが活躍しました。
薩摩錦手が海外で人気を集めると、国内の多くの産地で薩摩焼風の陶器、いわゆる京薩摩、横浜薩摩などが製造されるようになります。海外では、それらも含めて「SATSUMA」と認識されたことから、薩摩焼の窯元たちは、国内での激しい競合にさらされることになりました。 十二代沈壽官は、他産地の追随を許さない、薩摩独自の美の追求と技の開発に取り組みました。その結果、現代の薩摩焼の原型がこの時期に確立したのです。
薩摩固有の美
十二代沈壽官は、目指すべき薩摩固有の美として、堅く焼き締まった素地、細やかな貫入、純質の金泥を厚く盛った金彩、素地と調和した絵付けの4点を挙げています。江戸時代以来、素地の美しさが追求されてきた白薩摩を生かす製品づくりの伝統は、現代に受け継がれています。
冴える彫刻技法
「透彫」は、明治12(1879)年頃に十二代沈壽官が発明した技法です。陶器の器面全体に繊細な透彫をほどこす技法は彼の独創でした。透彫と絵付けを調和させた製品も登場し、高度な技術と端正な美しさは、博覧会などで高く評価されました。現代では、薩摩焼を代表する技法となっています。
薩摩焼では、人形などの置物細工を「捻り物」(ひねりもの)といいます。江戸時代から高い彫刻技術が育まれ、主として観音などの聖人像が多く製作されました。明治20年代以降、沈壽官窯での捻り物づくりは、人々の生活の一コマや動物の一瞬の仕草、自然へと広がりをみせ、命の息吹が感じられる生き生きとした表現となっています。
白薩摩の魅力は、400年にわたって積み重ねられてきた、人の手による可能性を謳歌する焼物づくりにあります。今、その伝統に支えられながら、白薩摩はさらに自由に、さらに精緻に、革新を続けています。
沈家伝世品収蔵庫
沈壽官窯の敷地にあり、江戸時代の薩摩焼や沈壽官家に伝来する作品の数々を見ることができ、薩摩焼の歴史の流れについてもわかりやすく展示されています。薩摩焼の製作のようすを見学することができ、ギャラリーでは沈壽官窯の製品を購入することもできます。
京都女子大学 生活デザイン研究所
提供: ストーリー

【監修・テキスト】
・深港恭子(鹿児島県歴史資料センター黎明館

【協力・資料提供】
沈壽官窯
鹿児島市立美術館
薩摩伝承館

【英語サイト翻訳】
・エディ―・チャン

【サイト編集・作成】
・石川真実(京都女子大学

【プロジェクト・ディレクター】
・前﨑信也(京都女子大学 准教授
・山本真紗子(立命館大学)

提供: 全展示アイテム
ストーリーによっては独立した第三者が作成した場合があり、必ずしも下記のコンテンツ提供機関の見解を表すものではありません。
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