室町水墨画の傑作

京都国立博物館

From the Muromachi period (1392-1573)  

室町水墨画
日本では古くから中国の文物である「唐物(からもの)」が珍重されました。室町時代には、足利将軍家が東山殿に膨大な量の唐物を蒐集します(東山御物)。こうして宋元時代の絵画、とくに水墨画が日本人の目に多く触れるようになると、日本でもすぐれた水墨画が描かれるようになります。京都国立博物館には、室町水墨画の重要作が多数所蔵されています。

王羲之書扇図(15世紀)
如拙筆

如拙(じょせつ)(生没年不詳)は足利将軍家や相国寺周辺で活動していた画僧で、とくに足利第4代将軍・義持(よしもち)(1386~1428)の命で描いた「瓢鮎図(ひょうねんず)」(退蔵院蔵)は彼の代表作としてつとに名高い。

本図はその「瓢鮎図」とともに、如拙真筆であることが明らかな希少な作品である。図上に賦された五山文筆僧・惟肖得巌(いしょうとくがん)(1360~1437)の賛によると、この画はかつて大岳周崇(だいがくしゅうすう)(相国寺第10世、1345~1423)が如拙に描かせた扇面であったが、のちに弟子の子鞏全固(しきょうぜんこ)が掛幅に改め、賛を求めてきたという。大岳は先の「瓢鮎図」に序文を寄せたことも知られるので、如拙とはかなり近しい関係にあったのだろう。

画題は、書聖・王羲之が扇(団扇)売りの老婆のために扇に字を書いてやったので飛ぶように売れたが、それに味を占めた老婆の再度の要求には応じなかったという逸話に基づく。そこにみる王羲之や老婆、樹木などの表現は梁楷(りょうかい)(南宋時代の宮廷画家)の減筆体(げんぴつたい)の手法に学んでおり、簡略ながらも細線を駆使して的確にあらわされている。
なお、扇面は改装時にその形状が団扇形に変えられているが、これは題意を強調するための粋な趣向である。

雪裡三友図(15世紀)
玉畹梵芳等賛

三友とは松竹梅のこと。古くより吉祥的な題材として描かれてきたが、一方で厳寒の季節に枯れるどころかますます勢いを盛んにするところから、汚濁にまみれた世の中を堪え忍ぶ高士や士大夫たちの姿の象徴(ないしは理想像)としても絵画化されている。
本図はわが国で制作された三友図としては現存最古となるもので、賛者5名―岳林聖嵩(がくりんしょうすう)・惟肖得巌(いしょうとくがん)・玉畹梵芳(ぎょくえんぼんぽう)・大愚性智(だいぐしょうち)・古幢周勝(ことうしゅうしょう)―の動向などから、応永20~27年(1413~20)頃の作と推定できる。また本図制作の場として、当時、南禅寺にいた賛者のひとり、玉畹(1348~?)を中心とする詩友の集いも想定されている。

雪中にすっくと立つ2本の松とそれに寄り添うように配される梅竹の姿が黒々とした墨調をもって捉えられているが、こうした手法は「柴門新月図」(藤田美術館)など同じ応永期の詩画軸の中に散見される特徴である。

湖山小景図(15世紀)
松谿筆 翺之彗鳳賛

松谿(しょうけい)(生没年不詳)の伝歴は不明だが、画風や賛者の没年などから判断して、15世紀半ば頃を中心に活動した画僧であったと推測される。遺作には「布袋図」(京都国立博物館蔵)や「寒山拾得図」(徳川美術館蔵)などの道釈人物画もあるが、最も得意としたのは山水画であったようだ。

本図はその好例となるもので、明るい広々とした山水景観が絶妙な構図感覚とデリケートな筆遣いをもって見事に描出されている。随所に引かれた金泥の霞も効果的で、画面にいっそうの華やぎをもたらしているといえよう。彼の先輩格(あるいは師か)、周文(相国寺の僧で、室町幕府の御用絵師)の山水図が備えていた都会的(京都的)な雰囲気を一段と進展させ、磨き抜いたといった感じである。
賛者の翺之慧鳳(こうしえほう)(?~1465頃)は入明経験をもつ東福寺の僧で、雪舟あたりとも交流があった。この賛では、図の景観を彼が中国遊学の際に訪ねた杭州西湖の光景と重ね合わせている。

四季花鳥図屏風(15世紀)
雪舟筆


水墨画の巨人、画聖などと仰がれて人口に膾炙(かいしゃ)する雪舟(1420~1506?)。備中国(今の岡山県)に生まれた彼は、上京して相国寺に入り、禅と画業に励んだのち周防国山口に居を移した。その後、遣明使節団に加わって入明し、本場の水墨画に親しんだことが知られる。帰国後、その作画意欲はますます高まり、絵筆を携えて諸国を遊歴するなど旺盛な活動を展開した。

本図はかなりの数が遺る伝雪舟筆花鳥図屏風絵群の中にあって、唯一、彼の真筆と目される作品である。両隻とも松や梅の巨木によって画面が支えられ、その周囲に四季の草花や鳥たちが配されているが、

まるで爬虫類のような松梅の不気味な姿とアクの強い花鳥の描写によって、画面には独特の重苦しい雰囲気がもたらされている。

四季花鳥図屏風(15世紀)
雪舟筆

おそらく呂紀(りょき)の作品に代表される明代の花鳥図が参考にされたのであろう。狩野派や曾我派にも明代のそれに学んだ作例はあるが、本図のように中国画のもつ重厚感やアクの強さをダイレクトに表出したものは少ない。その点、本図の画風は当時の人々の目に斬新に映ったことであろうし、また同時に「入明画家・雪舟」の存在を強くアピールしたに違いない。

口伝によると、文明15年(1483)石見益田家の当主・兼堯(かねたか)の孫、宗兼(?~1544)の襲禄祝いに制作されたとされるが、確証を得ない。

天橋立図(16世紀)
雪舟筆

文亀元年(1501)丹後を訪ねた際のスケッチをもとに描かれた、雪舟最晩年期の大作である。

図の中央には天橋立の白砂青松と文殊信仰で名高い智恩寺があらわされ、その上方に阿蘇海を挟んで寺社の林立する府中の町並み、さらにその背後には巨大な山塊と観音霊場である成相寺の伽藍が配されている。

一方、橋立の下方には宮津湾が広がり、ちょうどそれを取り囲むように栗田(くんだ)半島の山並みがなだらかに横たわっている。
一見、実景そのままを写し取ったかのようなリアルな雰囲気があるが、実際は山を極端に高くあらわしたり、町並みを長く引き伸ばすなど大幅な変更が試みられている。また、図全体をかなり高所から捉えた構成になっているが、このようにみえる場所自体、実際は存在しないのである。橋立の威容をより効果的にみせるための工夫であったのだろう。筆遣いはいたって荒々しく、まさに一気呵成に仕上げた印象を受けるが、かえってそれが図に独特の躍動感や力強さをもたらしている。

山水図襖(1490年)
宗継筆

宗継(号は月船。生没年不詳)は、室町幕府の御用絵師を務めた宗湛(そうたん)(俗姓は小栗(おぐり))の子。はじめ相国寺で禅僧としての生活を送っていたが、長享2年(1488)ゆえあって還俗し、専門絵師の道を歩み始めたことが知られる。画史類にその名が載る「遮莫(しゃばく)」という逸伝画家と同一人物であった可能性が高い。

本図はそんな宗継の数少ない基準作となるばかりか、水墨による現存最古の襖絵としても重要な作品である。『蔭凉軒日録(いんりょうけんにちろく)』によると、延徳2年(1490)7月25日に宗継は養徳院(大徳寺の塔頭)のために夏珪(かけい)(南宋時代の宮廷画家)のスタイルで6面の山水図襖を描き終えたが、それがまさしく本図にあたる。

現在は幅の広い4面の襖だが、引手跡などから判断して、もとは幅の狭い襖5面を貼り継いだものとみられる。いくぶん圭角のかった岩の表現に、宗継の個性が顕著である。

四季花鳥図屏風(16世紀)
芸愛

芸愛(生没年不詳)の素性については必ずしも分明ではないが、宗湛(室町幕府の御用絵師、俗姓は小栗)の画系に連なる絵師・宗栗(そうりつ)と同一人物とみなされることや、およそ16世紀半ば頃に京都を中心に活動していたことなどが想定される。とくに大徳寺とは関係が深かったようで、天文10年(1541)代の前半頃、同寺内に再建された龍翔寺方丈に真体および行体手法による花鳥図襖(江戸時代末に焼失)を描いた可能性が高い。
 

本図はそんな芸愛の手になる真体花鳥図の大作である。当初の印は切除され、周文印が後押しされているが、むちのようにしなる松や桃、椿など、まるで突風にあおられたような激しい動勢に芸愛の個性がはっきりと見て取れる。どうやら風の動きを表現することが、彼の意図するところであったらしい。帝国博物館初代総長を務めた九鬼隆一の旧蔵品。

琴高仙人・群仙図 (16世紀)
雪村筆

雪村(1504?~?)は常陸国(今の茨城県)の出身で、当地を治めていた佐竹氏の一族。若くして禅僧となって会津や鎌倉、小田原などを遍歴、最晩年には陸奥国三春(今の福島県)に隠棲した。雪舟の画風を慕うかたわら中国画なども広く学び、この時期の画壇にあっては最も個性的な画風を打ち立てた画家である。
本図は雪村の手になる人物画の代表作。主題の琴高は中国周時代の仙人で、200年の長きにわたり諸国を流浪した。ある日、龍の子を捕ってくると弟子たちに言い残して入水、約束の日に巨大な緋鯉(描かれる場合はたいてい真鯉)に乗って出現したという。本図では中幅に琴高、左右幅に弟子たちがあらわされているが、彼らの顔やポーズはまことにユーモラスなもので、まるでアニメのひとコマをみるような錯覚すら抱く。また、クラゲの形をした波頭の表現も他に類例がなく、まさに雪村独特というほかない。

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