水墨の表現―モノクロームの陰影―

京都国立博物館

The art of monochrome ink painting
The large-scale introduction of Chinese ink paintings and techniques began in the mid-Kamakura period (1185-1333), triggering the production of paintings based on brushstroke delivery and tonal gradations of ink in Japan. These paintings were referred to as kanga (lit. Chinese paintings) as opposed to the conventional yamato-e (lit. Japanese paintings), which placed greater emphasis on the craft of color application. Kanga occupied an increasingly important place in Japanese culture with the rise and spread of Zen Buddhism. Not all kanga or ink paintings were monochromatic, but works recreating space and light solely with gradations of black and white nevertheless represent the quintessence of the art of ink painting.

遠浦帰帆図(13世紀)
牧谿筆


「遠浦帰帆」とは、北宋時代後期の文人画家・宋迪(そうてき)が提唱した「瀟湘八景(しょうしょうはっけい)」のうちの一景を指す。湖南省の洞庭湖とその南にある瀟水、湘水の二河川の流域を「瀟湘」といい、李白や杜甫の詩などで人口に膾炙(かいしゃ)した景勝地であった。

本図は、湿潤な空気感を伝える絶妙な淡墨で江上をゆく帆船とその帆影をあらわしたもの。筆者の牧谿(もっけい)は蜀(四川)の人で、法諱(ほうき)は法常。同郷の無準師範(ぶじゅんしばん)に師事し、西湖の六通寺(りくつうじ)の開山となった。画は殷済川(いんさいせん)に学んだ。
もっとも、中国で早くから牧谿の画は淘汰されており、むしろその多くが日本に舶載されて鑑賞された。本図は、文人たちが思い描いた理想郷を表す一方で、筆墨にたいするその後の日本と中国での認識の違いを端的に示した作品である。

今日、本図のほかに所在が知られているのは、「漁村夕照図(ぎょそんせきしょうず)」(国宝、根津美術館蔵)など6図で、本図を含めて4図の大軸と3図の小軸に分かれる。足利義満の鑑蔵印「道有」が捺された大軸は、もと一巻であったものを義満が座敷飾りのために切断したとされる。その後、村田珠光、織田信長、荒木村重、松平右衛門太夫、徳川家光、戸田家、田沼意次、松平不昧、吉川家に伝わった。

古寺春雲図 (1431年)


竹庵大縁(ちくあんだいえん)の題詩によって、豊後(大分)の蒋山万寿寺(しょうざんまんじゅじ)の温崗(おんこう)老僧のために作られた詩画軸とわかる。以下に景南英文(けいなんえいぶん)、与可心交(よかしんこう)、江西龍派(こうせいりゅうは)ら7僧の賛をもつが、これらのうちの5僧が東福寺系統であることは本図制作の場を物語っているようだ。

正面性の強い構図や重厚な筆致など、画風的にも東福寺の画僧・明兆(1351〜1431)のそれに近いが、ただ明兆は本図が制作される4ヶ月前に没しているので、明兆自身の作かどうかは微妙である。

夏冬山水図(16世紀)
雪村筆


雪村(せっそん)(1504?~?)は法諱を周継という画僧で、常陸国(現在の茨城県)を治めていた佐竹氏の出身。若くして出家し、会津・鎌倉・小田原などを遍歴したのち、三春(現在の福島県)の地に隠棲した。雪舟に私淑するかたわら、中国画なども広く学び、室町画壇にあっては最も個性的な画風を打ち立てた。

本品は雪村の比較的早い頃の作とみなされるもの。岩や楼閣などの表現には、雪舟に学んだことがうかがわれる一方で、モチーフを極端にデフォルメする彼特有の描法も既にみとめられる。雪村の著作『説門弟資(せつもんていし)』には、「予は多年雪舟に学ぶといえども画風の懸隔(けんかく)せるを見よ」、つまり雪舟とは違う画風を作り上げた、という言葉がある。本作はまさにそんな彼の自負心を裏づけるものとみなせるであろう。

飲中八仙図(1602年)
海北友松筆


唐の杜甫(とほ)『飲中八仙歌』にちなむ主題。現状、酒豪(酒仙)は4人だが、あと4人を描いた右隻があったのだろう。
少ない筆数で身体を表わす中国南宋の梁楷(りょうかい)の「減筆体(げんぴつたい)」にならう海北友松(1533~1615)独特の人物描法は、後世「袋人物」と愛称されることになる。その好例であり、はつらつとした動きがあって画面に快活なリズムを刻む墨描、張りのある豊かなフォルム、酒仙たちの顔の表情の描き分け、さらに松や岩の丸みを帯びた柔らかな形体、濃淡を効かせた水墨描がすばらしい。

左端の款記「此画図之事任御好染形也因幡鹿野之館可有翫見御消息一入振肘畢慶長七年陽月哉明江北海北友松書之」から、この屏風は、慶長7年(1602)10月3日、因幡国鹿野の城主である亀井茲矩(これのり)(1557~1612)の依頼によって制作したものであることが判明する。友松の作品には、制作年が判明するものは極めて少ない。その点、この屏風は、制作年の判明する基準的な作例として貴重な遺品といえる。

蓮池水禽図(17世紀)
俵屋宗達筆


蓮の花咲く池にかいつぶりが泳ぐ。そんな何げない景だが、筆が生命を吹き込んで豊かな世界が生まれている。
二茎の蓮は、微妙な濃淡によって葉の表裏を描き分けて椀状の形をつくり、右は上方に広がり、左は下方に伏せる。花は、今を盛りと咲く姿と、すでに花弁が散り始めた姿。その対照と対応させて、かいつぶりは、一羽は小波をたてて泳ぎ進み、一羽は足を休めて佇む。時の移ろいや動静、乾湿の対比などが絶妙に表わされている。

宋元画の蓮池水禽図がいくつか伝わっており、宗達は、それらを元に描いたと思われるが、抑制された淡い墨やきらめくような墨色、柔らかく繊細な筆づかいなど宗達独特の筆墨によって、元のものとはまったく異なる性質の画へと変容し、爽快なビジョンを獲得している。

画面左下隅に「伊年(いねん)」印のみで署名はないが、完成度の高さからも宗達直筆であることを疑うべくもなく、「たらし込み」(前の墨が乾かないうちに濃度の異なる墨を加えてむらむらを作る水墨技法)を多用していないことから、その比較的早い時期の作とみなされる。であっても、宗達の水墨の極致というべき名品であることは動かない。

漁楽図(18世紀)
池大雅筆


暗所から急に陽光の中に出ると、瞬時、外界は白んで知覚される。本図に描かれているのは、このハレーション効果を伴う、強い光が照らしつける自然であろうか。筆墨をおさえ、短いタッチを連ねて構成された本図を見つめていると、やがて網膜上に確かな像が結ばれてくる。柔らかな牛毛皴(しゅん)をほどこした岩、胡椒点・介字点によって点描された樹葉などが、下から上へうねりつつ展開する。対象把握の確かさはゆるぎがない。

まぶしい光が反映する樹葉や水波の描写は繊細で、単調さを破る側筆風のふとい樹幹の表現も見のがせない。リズミカルな墨の濃淡は、墨一色とは思えない多彩さ、動勢、立体感を生んでいる。舟で酒盃をかわす漁師たち、水遊びに夢中な子供たちの顔や姿態も、実に表情ゆたかだ。

款記「倣王摩詰」が意味するものは、画法の典拠ではなく、池大雅(いけのたいが)(1723~76)が生涯敬愛した唐の詩人画家、王維の「声無き詩」への遥かな思慕だろう。日本南画の大成者であり、光への鋭敏な感覚をしめした大雅40歳代の傑作として忘れられない。

果蔬涅槃図(18世紀)
伊藤若冲筆


大根を釈迦に見立て、入滅を嘆き悲しむ菩薩や羅漢、動物・鳥をさまざまな京野菜や果物で、そして沙羅双樹を玉蜀黍(とうもろこし)であらわした見立て涅槃図。もと京都・誓願寺の什物だった。

この画について、涅槃図のパロディというレベルでしばしば語られるが、そうではない。伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)(1716~1800)は、相国寺に「動植綵絵(さいえ)」30幅を精魂こめて描き贈るほど敬虔な仏教徒であった。この見立て涅槃図についても、安永8年(1779)の若冲の母の死を契機とし、母の成仏と家業の繁栄を祈ったものとみる説が出されたが、この説をとるべきだろう。もちろん、若冲が京都・錦小路の青物問屋の跡継ぎとして生まれ育ったことと無関係ではない。

ユーモラスな表情をみせながら、活気に満ちた大画面。コクのある中墨の面と線、潔い濃墨のアクセント。若冲は、「動植綵絵」のような着色花鳥画ばかりでなく、水墨画にも新しい境地をひらいたのだった。
このほか京都国立博物館には、若冲作品として伏見・海宝寺(かいほうじ)旧蔵の障壁画「群鶏図」、「石燈籠(いしどうろう)図屏風」、「石峰寺(せきほうじ)図」、「乗興舟(じょうきょうしゅう)」などが所蔵されている。

梅花図冊(1754年)
李方膺筆


揚州八怪(ようしゅうはっかい)の1人で、金農(きんのう)と並ぶ墨梅の名手・李方膺(1696~1755)の画冊。売画生活をおくっていた晩年の乾隆19年(1754)の作である。
李方膺は、字を晴江といい、号は虬仲(きゅうちゅう)、衣白山人、借園主人など。揚州府通州(江蘇南通)の人。山東省楽安県や安徽省合肥県の県令などを歴任したが、乾隆16年(1751)、2度目の弾劾を受けた後、金陵(現在の南京)の淮清橋北にある項氏の花園を借りて「借園」と名づけ、売画で糊口をしのいだ。

本図はその借園で画いたもの。金陵では、性霊派(せいれいは)を率いた詩人の袁枚(えんばい)や印人の沈鳳(しんほう)ら友人たちとの交流を深めており、貧苦のなかにあっても、作画する喜びをつづった自題をもつ作品が多い。本図もそのひとつであり、第一図には、「鉄幹氷花雪裏、開精神満腹」とある。末頁の第14図にある鑑蔵印「両峰主人珍蔵」は、友人で画家の羅聘(らへい)の所持品であったことを示す。

画の構図は、天から枝を張り巡らせる、地から屹立する、屈折しながら横に伸びる、の3種で、いずれも墨梅の基本型である。しかし、幹と枝の転折を誇張し、随所に水気の多い墨をもちいることで、画中に奥行きを作り出している。墨梅画の定型を踏まえながらも、用墨の自由さが際立った一作である。
本帖の題箋は、大正・昭和初期の漢学者・長尾雨山(ながおうざん)の筆による。

宋法山水図(1922年)
斉白石筆


近代中国を代表する画家の一人である斉白石(せいはくせき)(1864~1957)の筆による山水図。白石といえば、水墨淡彩による写意の花卉や草虫の小品が知られているが、本図のような大幅の山水は珍しい。

斉白石は名を璜(こう)といい、白石の号で知られる。湖南湘潭の人。大工や指物師などをしながら絵を学び、光緒28年(1902)から7年の間、陝西、江西、広東、広西などを5回に分けて旅した。その後、北京に居を定めたが、白石の画が評価されたのは、友人の陳師曾(ちんしそう)の勧めで画風を変えてからのことである。

本図は、白石の画名が高まりはじめた頃の作で、広西にある景勝地・桂林を訪れたときの記憶をもとに描いたもの。柱状の山峰が幾重にも連なる奇観を、水墨の濃淡と肥痩のない均一な筆線をもちいて、大画面の構図に写し取った。同年の作に「背江村屋図」(京都国立博物館須磨コレクション)があり、白石はこの時期に集中して宋人の画法による山水図を試みている。ただし、本図は特定の画家に倣うのではなく、宋代山水の気風を当代風に解釈しなおした独自の作品と見るべきであろう。

本図は、白石と親交のあった外交官・須磨弥吉郎(すまやきちろう)の収集品。白石は須磨に本図を「一生一大の大力作」(須磨ノート「斉璜白石翁」)であると語ったという。

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