「私は、いつの日か、一枚の裸婦像を前にして、見る人がそれは娼婦か、職業的モデルか、あるいは社交界の婦人なのか、見分けられるところにまで達することができると思う」。1924年、当時まだ33歳のキスリングは雑誌にこんな自信に満ちた発言を残している。その言葉通り、キスリングの描く人物像は徹底した写実力に支えられながら、しばしば驚くほどの圧倒的な存在感を示すが、その最良の例の一つがこの《マルセル・シャンタルの肖像》である。暗い背景の中に溶け込むようなモデルの姿と、それとは対照的に白く浮かび上がる顔と手、という手法はキスリングがしばしば用いるところだが、この絵における顔と手の表現の生々しさ、その存在感は群を抜いている。とりわけ我々を見つめるその視線の鋭さには、鳥肌が立つような凄みがあるが、キスリング自身、この絵を制作した時の心情を次のように語っている。「私はいつも自分のモデルに恋をしてしまう。しかし、今回ばかりは恋ではない。何かにとりつかれてしまったのだ」。
モデルを務めているマルセル・シャンタル(1898~1960)はフランスの映画女優で、この絵に描かれた1930年代の半ばが彼女の全盛期であった。「クールにして気品のある美貌」と称えられた女優の往時の姿は、この絵からも充分に窺うことができるが、ここにはそれ以上の何か、画家の心を虜にした妖しいオーラが漂っている。
(出典: 名古屋市美術館展示解説カード)