玄透即中(1729~1807)は江戸後期の曹洞宗の禅僧。空華庵・断索道人・玄野翁等と号す。頑極官慶の法を嗣ぎ、美濃の善応寺11世、摂津の仏眼寺6世、備中の円通寺11世、武蔵の龍穏寺47世等を経て、寛政7(1795)年に永平寺50世となる。翌8年洞宗宏振禅師の勅号を賜わる。月舟宗胡・卍山道白・面山瑞方と受け継がれた古規復古を継承し、生涯を道元への復古および永平寺の復興を目指した。また永平寺在住中は、享和2(1802)年の高祖道元五五〇回大遠忌に当たり、その厳修に尽力するとともに、『彫刻正法眼蔵』九五巻の版行にも努めた。今日の永平寺の基礎を確立し、永平寺中興の祖と称される。
一休法語は室町時代の臨済宗の禅僧・一休宗純(1394~1481)の法語とされる書。江戸時代以降の一休伝の発達や、民衆に禅要を平易に説く仮名法語の普及を背景に成立した、一休に仮託した法語と思われる。「仏眼玄透」とあり仏眼寺時代(1785~1791)の書であることがわかる。玄透の書は永平寺時代のものが多く残っているが、それ以前の書は希少である。