真黒な金華山の岸壁を背景に、篝火はあかあかと川面を照らす。玉堂はふるさとの情景を生涯描き続けた。
川合玉堂は本名芳三郎。愛知県木曽川村に生まれ、のち岐阜市に移った。京都に出て望月玉泉、ついで幸野楳嶺に入門して円山四条派を学び、また上京して橋本雅邦にも就いた。日本美術院の創設に際しては雅邦に従ってこれに加わると同時に、文展・帝展でも活躍した。大正4年(1915)には本学教授となり、昭和13年(1938)まで在職している。晩年は奥多摩の御岳に居を構え、俳句もたしなんだ。長良川沿いで幼少期を過ごした彼にとって、鵜飼いは慣れ親しんだ画題であり、生涯に数百点の作品を残している。本図は昭和6年の第12回帝展に出品された作品で、篝火やそれを映す水面には金泥が用いられ、闇の中の光をより印象的なものとしている。鵜匠や水夫の動きをとらえる筆には円山四条派の闊達な写実描写が、背景の巨岩には狩野派の皴法が見られ、ともに古典的な技法を温存させつつも新しい感覚による抒情性をたたえた作品となっている。(執筆者:高瀬多聞 出典:『芸大美術館所蔵名品展』、東京藝術大学大学美術館、1999年)