出島はキリスト教の布教を阻止するため、市中に雑居していたポルトガル人を住まわせる目的でつくられた。面積1万3000㎡mの扇形の島で、寛永(かんえい)11(1634)年から2年の歳月をかけて完成した。幕府が、寛永16(1639)年にポルトガル人を追放してからは平戸にあったオランダ東インド会社の商館がこの地に移された。出島には、商館長(カピタン)以下10~15人程度の商館員と下働きや商館員の身の回りの世話をする人々がいた。商館員は本国から夫人を同伴することが許されず、出島からの外出も、許可を得て幕府役人の警護のもとでしかすることができなかった。そして、商館長は年に一度新年に江戸に行き、徳川(とくがわ)将軍に拝謁した。
このように江戸時代を通じて日本は「鎖国(さこく)」体制をとり、幕府は長崎でオランダのほか、中国の商人にのみ貿易を認めた。そして安政(あんせい)4(1857)年に開国するまで、出島は日本で唯一の、西洋文化流入の窓口となったのである。
【ID Number1989B00907】参考文献:『福岡市博物館名品図録』