玉章は常に、暇があれば写生をするようにと言っていた。彼は没骨で速写する「付けたて」技法の名手でもあった。
川端玉章は京都の生まれ、名は滝之助といった。はじめ中島来章について円山派を学び、慶応2年(1866)に江戸に出た。明治初年には高橋由一について洋画を学んでもいる。東京美術学校開校に際しては岡倉天心に教授として招かれ、明治31年(1898)のいわゆる「美校騒動」の後も美校にとどまり、明治45年まで在職した。また、帝室技芸員・文展審査員などを務めた。本作品は、本学開校と同時期に描かれたもので、紙本着色の大下図も所蔵されている。雪に掩われた大地を背景に、一群の鴨が飛び立つ図で、古典的な円山派の画題であるが、写実的な描写と熟達した筆線とで鴨の羽撃きをよく捉えている。また、正面向きの鴨には洋画風の短縮法がみられ、玉章が単に古典の継承のみでなく、革新の気鋭に満ちた作家であったことを示している。(執筆者:高瀬多聞 出典:『芸大美術館所蔵名品展』、東京藝術大学大学美術館、1999年)