河村若芝(1638~1707)は、肥前佐賀・竜造寺家の人。風狂子、散逸道人と号し、僧名を蘭渓道光という。故あって隠遁の後、長崎へ出て、逸然性融(1601~68)に絵を学んだ。達磨や羅漢など道釈人物画を多く遺している。その作風は「風狂子」の画号のとおり、師の有していた奇狂な造形美を更に執拗なまでに増幅させたもので、長崎唐絵を代表する奇才であった。
ひとつの円い塊のように集まる16人の仙人たち―彼らは、鶴に乗って飛来する寿老人を見上げて指さしたり、両手を合わせるなど興奮気味に迎えている。中国では「群仙供寿」、「群仙慶寿」と呼ばれる長寿を祝う伝統的な画題である。明朝体で「寛文九己酉季廣寒朔且 烟霞野僧若芝薫沐敬寫」と款し、若芝32歳。
なお、図様のよく似た「迎寿老人図」(個人蔵)は逸然の弟子・渡辺秀石(1639~1707)の筆と伝承される。共通の粉本に基づく制作が想定され、興味深い。また、狩野探幽筆「学古帖」(個人蔵)のうち、第36図「問顔輝図式」にも同種の図様が認められる。本画帖の第1図には「宮内卿法印探幽行年六十九歳図之」と落款がある。ほぼ同時期(寛文10年(1670))に本画帖の各図が制作されたとすると、若芝の「群仙星祭図」とほぼ同年代となる。