逸然性融(1601~1668)が描き、隠元隆琦(1592~1673)が賛を加えた観音図。逸然は寛永18(1641)年に薬種商として長崎へ渡来した。正保元(1644)年長崎興福寺2世黙子如定に師事し、翌年興福寺を嗣ぐ。逸然は隠元の来日を実現させた功労者として讃えられている。本来は隠元の弟子也嬾性圭が来日する予定であったが、渡航中に遭難してしまい隠元を招くことになった。逸然は隠元に招請の手紙を4度送り、ようやく来日が実現した。
逸然は絵画に秀で「唐絵の祖」と称されたように明清風の新画風を移入する役割を果たした。喜多道矩・元規らが黄檗の歴代祖師の頂相を専らにしたのと対照的に、逸然は釈迦・観音・達磨・祖師などの仏画・祖徳画を得意とした。
本資料は寛文2(1662)年の作で隠元の賛を持つ。海中の岩に座す観音図は、室町水墨画の画風を思わせ、伝統的な日本画の図様も学んでいたことがうかがえる。隠元の賛は『普門語録』に観音図賛として収録され、また『観音図帳』にも同じ賛を記している。