本図は松花堂昭乗(1584〈1582説あり〉~1639)が描き、沢庵宗彭(1573~1645)が着賛したもの。
松花堂昭乗は江戸前期の真言僧、能書家。摂津国出身。惺々翁、空識などと号す。慶長5(1600)年、石清水八幡宮(京都府)の社僧となり密教を学んだ。寛永4(1627)年、滝本坊住職を嗣ぐ。
書画に秀で、本阿弥光悦・近衛信尹とともに寛永の三筆の一人に数えられる。滝本流(松花堂流)の祖となり、その書風は手本として多く刊行された。画は土佐派・狩野派を折衷した画風で、多くの作品を残している。また茶の湯にも通じ、昭乗が収集した茶道具は「八幡名物」として、茶人の間で高く評価されている。
滝本坊を弟に譲ったのちの寛永14(1637)年、滝本坊の南の丘に「松花堂」を営み隠棲、風雅の道をたしなんだ。沢庵宗彭・小堀遠州・徳川義直など僧侶・茶人・武家と広く交流を持ち、寛永時代を代表する文化人であった。
なお松花堂弁当は、昭乗が使っていた道具箱をモデルとしたものといわれている。昭乗は農家で使っていた種入れをヒントに入れた自作の箱をつくり、絵の具箱や茶会の時の煙草盆などに使用したと伝えられている。この話を聞いた料亭の主人が、大正末期に考案したのが、十字の仕切りを入れた松花堂弁当の起源といわれている。
本図は寛永15(1638)年10月の作品で、沢庵66歳。この年の7月、沢庵は後水尾上皇に『原人論』を講義し、また江戸では徳川家光により品川東海寺の寺基が定められているころである。一方、昭乗は松花堂を建てた翌年の56歳。
棒を持って座しているのは唐代の禅僧・徳山宣鑑(780~865)。棒をふるって厳しく学人を接化したことから「徳山の棒」と称された。同時代の中国臨済宗の祖・臨済義玄(?~866)の「臨済の喝」とともに、機峰の鋭い禅風を表す語として並び称される。徳山図は、「臨済・徳山図」の対幅か、「達磨・臨済・徳山図」の三幅対が一般的であることから、本図ももとは対幅あるいは三幅対であったと思われる。