この屏風は、密教の灌頂(かんじょう)という儀式で使用されてきたもので、東寺に伝来していた。法会の威儀をととのえるために日常の室内調度の屏風を転用したのがはじまりである。12世紀になって灌頂が盛んになると、次第に法会の形式も完備し、そこで使用される屏風もこの画題に決まっていった。本図は、11世紀後半に遡ると考えられる最古作であり、王朝時代の調度品の実態がうかがえる。
画題はよくわかっていないが中国の故事に求めており、「唐絵(からえ)」ということになる。描写のスタイルは中国の唐時代に由来するものだが、中国画で感じる厳しさはあまりない。「金岡(かなおか)は山を畳むこと十五重、広高(ひろたか)は五六重也」(『雅兼卿記(まさかねきょうき』)とあるように、宮廷画家として活躍した巨勢(こせ)家においても、9世紀末に活躍した金岡に比べ、11世紀初頭に活躍した広高では、既に重々たる山岳を描くことは流行らなくなっており、本図もその流れで理解できる。こうした柔らかく穏やかなスタイルを洗練させたところに「国風文化」の真面目(しんめんぼく)がある。