聖聡院従姫(9代宗睦嫡子治行正室)所用
元亀三年(一五七二)に行われた武田信玄との三方ケ原合戦の際に、命からがら逃げ帰った姿の家康画像で、家康自らの命により、慢心の戒めとするために描かせたとされている。憔悴しきった表情で、顔を顰めたように見えることから別名「顰像」とも呼ばれるが、その逸話の史料的根拠は明らかではない。もともと聖聡院従姫が尾張家九代嫡子の治行に嫁ぐ際に紀伊家から持参した品である。本像は三方ケ原合戦の際の姿ではなく、怒りを表す忿怒の表情で、家康を武神として礼拝するために製作されたとの説が、近年提唱された。