白馬会洋画研究所に学んだ後、〈白樺派〉の人々との交遊を通してゴッホやセザンヌなどを知る。1912年斎藤与里らと反自然主義を標榜して〈フュウザン会〉を結成。15年に〈草土社〉を創立。その後次第に東洋的性格を強め、初期肉筆浮世絵や中国の宋や元の時代の写生画にも傾倒する。
岸田劉生は1917年療養のため藤沢市鵠沼に転居しました。この鵠沼時代は《麗子像》などの人物画のほか風景画や静物画に数々の傑作が生まれ、彼の最も充実した時代でした。この作品も鵠沼の風景を描いたもので、彼が生前出版した自選画集の中に、会心作の一つとして収められています。劉生は13年頃から土の「生々しい不思議な生きた力」、道の「地軸から上へと押上げている様な力」に感動し、《切り通しの写生》や《赤土と草》などの風景を描いていますが、この作品もそれらに連なるものです。劉生の日記によると、5月11日に着手し、画中に記してあるように17日には完成させています。海に近い砂地の道の質感と澄んだ初夏の陽光を浴びた新緑の松の生命感が、健康を取り戻した劉生の伸びやかな筆致で見事に表現されています。