1916年7月、岸田劉生は肺結核の宣告を受けた。人一倍死を恐れ生に執着した感受性の強い劉生には、もっともつらい時期であったと思われる。翌年の2月、療養のため神奈川県鵠沼に転居。その効あってか、その年の暮れ頃には健康を取り戻している。本作が描かれた18年の春には、健康であることの喜びを全身に感じて新緑の季節を満喫したことだろう。避けていた戸外での写生もにわかに増えている。 画面の上部にかすれた文字で書かれているのは、「5月16日 劉生 1918」という日付である。カンヴァスの裏側にも書き込みがあって「五月の砂道 千九百十八年五月十六日描之 要三日間 岸田劉生画」と記されている。几帳面な性格にもよるだろうが、劉生にとって作品は言わば日記と同じ人生の記録であった。日付は欠かせないものであり、劉生の多くの作品に書き込まれている。 この年の夏から秋にかけて、劉生は麗子をモデルにして初めて娘の肖像を描いた。東京国立近代美術館が所蔵する《麗子五歳之像》である。以後、数々の麗子像が生まれたことはよく知られている。劉生にとって実り多い年であった。