画面両端に切り立った山を配し中央に広い水景を描き、広漠とした空間表現を創るという雲谷派の典型的な構図の山水図である。水面、樹木の葉、遠山などには彩色が施され、垂直にそびえ立つ山々、楼閣、釣り船といったモチーフをすっきりと構成した端正な図である。それぞれの筆致には等益の特徴的な表現が示されるが、金砂子の霞は後補と見られる。この時期、等益は寛永14年(1637)には老いのため目を病み息子や弟子達の補助のもと制作を続けた。これによって等益様式が受け継がれひいては雲谷派の基盤が出来ていった。
筆者の雲谷等益(1591-1644)は、桃山時代から江戸初期にかけて活動した画家で、雲谷等顔の次男として広島に生まれ、名を元直といい、父とともに萩に移り毛利輝元に仕えた。長兄の等屋の没後、雲谷派の二代目を継承し「雪舟末孫」を名乗る。京都にも進出して多方面で活躍して法橋に叙せられた。幾何学的な形態の端正な山水画を得意とした。「雪舟末孫雲谷等益筆」の落款がある。