金箔地に秋の草花の萩、菊、撫子、桔梗、紫苑、藤袴、女郎花、すすきなどが生い茂る広々とした野辺の情景を描く。秋草図や秋野図と呼ばれる作例もあるが、右隻に沈み行く三日月、左隻には富士山が描かれ武蔵野図となる。「武蔵野は月の入るべき嶺もなし尾花が末にかかる白雲」「武蔵野は月の入るべき山もなし草より出でて草にこそ入れ」などと詠われた古歌の歌意を表している。このような図様は桃山時代から好まれて江戸時代にはパターン化されていくが、本図では秋草は大柄で躍動的にまた富士山は水墨で雄大に描かれ、いかにも自然味に溢れた形態表現が認められ類型化に先行する作例である。
筆者については、落款、印章はないが、作風から長谷川派の画家と考えられ長谷川等伯(1539-1610)の婿養子等学(?-1623)説、あるいは等伯と長男久蔵(1568-93)の合作説の2説がある。類例には等伯一門による智積院の障壁画や、等伯筆「萩芒図屏風」、等宅筆「秋草図屏風」(南禅寺)などがある。
長谷川派は、「自雪舟五代」を名乗った長谷川等伯(1539-1610)を祖とする画派。同じ頃、雲谷等顔も「雪舟末孫」と称して雪舟正系であることを主張していた。