1903(明治36)年、東京美術学校に在学中の青木繁は、黒田清輝率いる白馬会で白馬会賞を受賞、華々しいデビューを飾った。『古事記』に着想を得たという受賞作《黄泉比良坂(よもつひらさか)》は、パステルや水彩で描かれた幻想的な作品だった。
画家としての成功を手中に収めたのもつかのま、沸きたつ想像力を画面にぶつけたかのような未完を思わせる作風のせいか、早くも二年後には青木と白馬会の間にズレが生じてしまう。以後、元に戻ることのないズレだった。
この自画像はそのころに制作された。画業だけでなく貧困、恋人との関係など、いくつものことが彼の精神に緊張を強いた時期だった。ロマン主義的な苦悩の表情は、フランスの画家ドラクロワを連想させるが「激しい情熱」に対する二人の処し方は根本的に異なっている。
禁欲的な生活をし、情熱を内に秘めたまま制作に没頭したドラクロワ。 一方、青木は情熱を御しきれず、夢破れて二十八歳の若さで砕け散っていった。