正保四年(1647)江戸津軽藩上屋敷。
津軽三代藩主「信義」は知人の大名たちを招き酒宴を催していたが生来の酒乱の悪癖のために客の大名たちは次々と席を立ってしまった。
これに腹を立てた信義は刀を抜き追いかける。しかし門外での忍傷ざたはお家取り潰しにもなりかねない。
その時家臣の「進藤庄兵衛」は命懸けで信義を引き止める。
その時信義の振り降した刀が庄兵衛の懐中の「千手観音」に当たり難を逃れたのであった。(ねぶたの場面)
庄兵衛は信義亡き後も名君と誉高い四代「信政」にも仕え「国にも替わる忠臣なり」と言わしめたという。
庄兵衛はその後、信政に青森城代家老として重用され、御仮家(出城)を建て盲目の弱者を起用し堀を作り又、新町に市を開くなど青森の発展に尽力した。そのジョッパリ精神は「鬼の庄兵衛」と称され現在も広田神社に奉られている青森中興の祖である。