岸田劉生(1891 -1929)は東京に生まれる。東京高等師範附属中学校に進学するが、画家を志して中退。白馬会の葵橋洋画研究所で黒田清輝の指導を受ける。雑誌『白樺』を知り、白樺派の作家たちと交友、後期印象派の画家たちに感銘をうける。1912(大正元)年にはフュウザン会結成に参加する。フュウザン会解散後、デューラーなど北欧ルネサンスの絵画にひかれ、独特な写実表現に向かった。1915(大正4)年から1922(大正11)年まで草土社を主宰し、《切通しの写生》や《麗子像》、神秘的な静物画などを発表した。
1916(大正5)年結核と診断され、劉生は静養生活を送らなければならなくなる。療養のため、戸外に出て写生することができなかったこの時期、静物画を集中して描くようになる。1917(大正6)年には、神奈川県の鵠沼に転居した。本作品は、この鵠沼時代に描かれた。劉生の1920(大正9)年6月の日記には、本作品とみられる記述があり、天候による光の加減に気をつかっていた様子がうかがえる。赤い林檎、茶碗、「京都で買ったギヤマンと茶壷」が、神秘的な存在感をもって描かれた静物画である。