太公望こと呂尚(りょしょう)は、謂水(いすい)に釣糸を垂れて世を避けていたが、中国・周王朝(紀元前1023~同255)の基礎を固めた文王によって用いられ、その才を発揮した。図様は、中国の版本『仙仏奇踪』(せんぶつきそう)から借用したものだが、大画面化にあたり、あらゆる曲線が人物の腹に収束するよう意図され、統一感のある画面が作り出されている。と同時に、なんとも朗らかな顔の表情やゆったりとした金箔地の広がりが大らかな気分を生んでおり、ひと目見たら忘れられない。
尾形光琳(1658~1716)は、京都・町衆のなかでも絵画で元禄期前後に活躍した中心人物。呉服商雁金屋(かりがねや)に生れ、初め狩野風の絵を学んだが、やがて本阿弥光悦・俵屋宗達の装飾画風に傾倒、大胆で華麗な画風を展開。また、蒔絵や染織など工芸の分野にも卓抜な意匠(光琳風・光琳模様)を提供した。その画風は弟の乾山や酒井抱一らに引き継がれ、琳派の系譜を生む。画風および「法橋光琳」の署名と朱文円印「澗聲」から、この屏風は光琳の江戸下向(元禄17年・1704、47歳)以前の制作とみなされている。
なお京都国立博物館には、光琳研究上の第一級史料として重要文化財「小西家旧蔵光琳関係資料」、光琳独特の水墨「竹虎図」も所蔵されている。