天正十八年(一五九○年)小田原征伐において豊臣秀吉に領土を安堵された津軽為信は京都へ参勤し、京都釜ノ座の屋敷に逗留していた。
文禄二年(一五九三年)、太閤と呼ばれ権力を欲しい儘としていた秀吉は、七月の盂蘭盆の出し物を諸侯に命じた。その中には日ごろ「成り上がりの田舎者」と 蔑視を受けていた為信の姿があった。今こそ我等の意地と誇りを見せるとき、と臣下に命じ、地元津軽の名物であった大灯篭を作らせ、京の都を練り歩かせた。 京都の民は一様にこの大灯篭に驚嘆し、互いに語り、為信の本懐を称えた。為信はおおいに面目をほどこし、秀吉に登用されその後、文禄・慶長の役、伏見城普 請などに功績を挙げた。
地元津軽の民は主君のこの出世を祝い、灯篭を持って城下を練り歩いた。
今日、ねぶた祭発祥の有力な一説となっている。