津軽為信は天文19年(1550)津軽赤石城にて出生、幼名を弥四郎という。 永禄10年(1567)大浦城主・大浦為則の養子となり、南部氏に属していたが南部氏が衰えると、 和徳城を攻め落として反旗を翻し、天正6年(1578)には浪岡城を同13年には田舎館城を攻略した。
主家であった南部勢を津軽より追い落とし、この地を領有してより、津軽氏を名乗った。
関ヶ原の合戦では徳川方に荷担し、その功により6万石の大名となった。
その後津軽平野を開拓し続け、石高は30万石を越えたといわれる。
二代信枚の代に完成した弘前城は今なお桜の名所として全国に名を馳せ、為信が行ったとされる漆の栽培は津軽塗という伝統工芸を生み出した。