1890年代のモネは、〈積み藁〉、〈ポプラ並木〉、ルーアンの〈大聖堂〉、そして〈セーヌ河の朝〉といった連作に意欲的に取り組む。そして晩年のモネがジヴェルニーの自宅の日本庭園の池を舞台に、睡蓮そのものを描くようになったのは1897年のことである。この最初の睡蓮の連作は8点描かれ、1902年には〈睡蓮〉連作に本格的に取りかかるようになった。以後、花の庭園を見下ろす寝室で肺硬化症で亡くなる1926年までの間に、彼はジヴェルニーの庭と池を描いた作品を300点以上も残す。しかもそのほとんどが、モネが70歳を過ぎてから86歳にかけて制作されている。
本作はモネが68歳の1908年に描かれた15点の連作の1点で、他の連作47点とともに翌年5月、パリのデュラン=リュエル画廊における「睡蓮ー水の風景連作」と題する個展に出品された。1906年頃から時折試みていたことであるが、ここでモネは明暗の差を極力抑え、ロココ的ともいえる繊細で優美な色彩と装飾性を見せている。膨大な睡蓮の作品全体の中で、最も軽快な作風である。
モネは、睡蓮に魅せられた理由のひとつをこう説明している。「そのイメージは無限の感覚を呼び覚ます。宇宙を構成する諸要素と、われわれの眼前で刻一刻と変わってゆく宇宙の不安定さとが、まるで小宇宙のようにそこに存在している」よく指摘されるように、水面の一部を切り取り、クローズアップして描く方法は、「一部を描いて全体を表わす」という日本の浮世絵版画に見られるような暗示的な手法といえる。モネが、浮世絵版画から「視点」と「表現」を学んだことは間違いなく、それは今日モネ美術館となっている彼の住居の壁に掛かる200余点に及ぶモネ蒐集の浮世絵版画からも想像できよう。
このようなモネの東洋的な感覚を取り入れた画風の新展開に対し、さまざまな批評が行われたが、モネは一言このように反論したのであった。「誰もが私の芸術を論じ、あたかも理解しなければならないかのように、理解した風を装っているが、本当は、ただ愛しさえすればよいのだ」なお本作とほとんど同じ構図、同じ色調による同年の作品が、ウェールズ国立美術館にある。